随筆・評論

2017年6月25日 (日)

丸谷才一、湯川豊『文学のレッスン』

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新潮選書から丸谷才一『文学のレッスン』が刊行されたので読んでみた。

先ごろ廃刊になった新潮社の季刊誌『考える人』の 2007 年春号が「短篇小説を読もう」という特集で、丸谷才一との対談を掲載していた。これが好評だったのか、次に「長篇小説」も特集したのだが、これで終わらず、対談はその後も「伝記・自伝」「歴史」「批評」「エッセイ」「戯曲」「詩」と続いたのだそうだ。これらをすべて盛り込んで 2010 年に単行本、2013 年に新潮文庫となり、さらに今回の新潮選書となったのだ。聞き手はいずれも湯川豊。

丸谷氏は古今東西の文学を奔放に語って、こちらの理解がついていかないところもあるが、それでも読んでいて実に楽しい。

その中の一つ、「演劇」の項では、

演劇が祭祀から始まったというのは説得力のある意見だと思うんです。(中略)それがいちばんはっきりするのは、歌舞伎の襲名披露などの口上ですね。(中略)舞台に座った役者たちがみな公式的な格式ばったことをいっていると、一人だけおどけたものがいて、(中略)。あれはコミック・リリーフというもので、どっと笑いをとることで気分がさっと変る。そうなるとこれはやはり芝居ですね。祭祀のなかに芝居がある。そしてお客はそれに参加することで陶酔する。

とあって、なるほどなあと思った。

丸谷才一、聞き手 湯川豊『文学のレッスン』(新潮選書、2017)

2017年5月 6日 (土)

堀江敏幸『音の糸』

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著者初の音楽エッセイとのこと。演奏会よりもレコード音楽に関するエッセイが多く、普段もっぱら LP や CD ばかり聴いている自分にはとても身近に感じられる。

ある日、電車に乗ったら、入口近くにヘッドフォンをした若者が立った。彼が鞄から CD ケースを取り出した。これを左手に持ち、右手を鞄に入れてポータブル CD プレーヤーを操作し、それまでの CD を取り出し、左手のものと入れ替えた。この一連の動作を、手元に目をやらず、ずっと外の景色を眺めながら行う。データ用 CD に手書きされた曲名が《月に憑かれたピエロ》。いまどきポータブル CD プレーヤー、そしてこの曲名に感銘を受ける。(「昼の月」)

フリードリヒ・グルダが、書き溜めてきたノートを一冊の本『音楽への言葉』にまとめた。この中の《get that edge off!(その角をとれ!)》から。私は《ハーフノート》でアート・ファーマーと共演した。そのあとで彼は、ジャズのサークルでも普通にやるような「おい、すごいぞ君は」というような儀礼的な嘘はつかなかったのだ。その代り、もっと「角を研ぐようにしなよ!」といったのだ。この善意ある建設的な批評に感謝しつつ、僕は自分の中に入っていった。(「その角をとれ」)

リヒテルはその著書の中で、バッハの《平均律クラヴィーア曲集第二巻》から連想される風景を順々に語りながら、《第四番嬰ハ短調》の前奏曲に到って、突然、白いさんざしにまつわる父母の思い出に触れ、プルーストの一節を引いてこう述べている。「さんざしは、恵み豊かだ。しかし、その内面に入り込むことを許しはしない。何度演奏しても謎を解き明かすことのできない音楽に似ている。果たして私はこの前奏曲の謎を解き明かせるのだろうか」(「リヒテルとさんざし」)

音楽好きには格別のエッセイ集。

ネウマ譜の一部をあしらったカバーが美しい。

堀江敏幸『音の糸』(小学館、2017)

2017年4月21日 (金)

丸谷才一編著『ロンドンで本を読む』

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丸谷才一の随筆を読んでいると、たまにイギリスの書評について書いたものにぶつかる。イギリスの書評がいかに程度が高くて、しかも楽しめるものであるかを力説しているのだが、そのたびに「なるほど」とか「そうだろうな」とか思うだけだった。実際にその書評を読んでいないのだから、仕方がない。

それではというので、書評そのものを翻訳し、それをまとめて一冊にしたのが本書というわけだ。

取り上げられているのは新刊にかぎらない。再販されたものがあり、英訳された外国の小説があり、写真集まである。それに、イギリスの書評は長さがまちまちで、かなり長い論文風になっているのもある。

内容はかなりむずかしいが、本質を射抜いて、ハッとさせられる箇所も多い。たとえば、村上春樹『象の消滅』の書評、リチャード・ロイド・パリー、小野寺健訳『わんさかワタナベ』はこんなふうである。

この滑稽で不気味な短編集には奥行きが欠けているとすれば、それはこれらの短編がぜったいに答えや慰めをあたえようとしないからである。この短編集の世界では、だれ一人満足していないし、本物とも思えない。洞察力も猜疑心も想像力も、役に立たないのだ。

本書で丸谷才一は次のように述べている。

対象である本を罵つて読者に快哉を叫ばせるのがよい書評だと思つてゐる人もゐるけれど、わたしに言はせれば、原則的には、さういふ本は取り上げる必要がない。大事なのは、読むに価する重要な本の重要性を、普通の読者に向けてすつきりと語ることなのである。

これはつまり、書評者がどの本を取り上げるのかが重要であるということなのだろう。

無意味な罵りやおためごかしとは一切無縁の一冊。

丸谷才一編著『ロンドンで本を読む』(マガジンハウス、2001)

2016年5月26日 (木)

丸谷才一『いろんな色のインクで』

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丸谷才一の随筆を読むのは楽しい。氏が亡くなったあとで刊行された『最後の挨拶』(集英社)が出たとき、作家の池澤夏樹が、(丸谷才一の随筆を)もう読めなくなるのかというのと、まだ読めるのかというのとがないまぜになった気持ちを述べていたのが印象的だった。

『いろんな色のインクで』は書評をまとめた一冊。書名は、原稿を書くとき、さまざまな色のインクを使うことからきている。インクの色を変えると元気が出るのだそうだ。ちょっとポップな装幀は和田誠。

はじめに、「藝のない書評は書評ぢやない」と題するインタビューが収録されていて、ここで、書評には大事なことが三つあるという氏の考えが述べられている。それは、本の選び方、話の要約と批評、藝と趣向の必要というもの。なるほどなー。

本書は、ほとんど知らない作家のものが取り上げられていて、それもかなりの分量なのだが、ふと目にした文章が、奇しくも、僕が丸谷才一の随筆を読むときに感じる気持ちをそのまま表している。

『世説新語』が好きで、ときたま読む。話がおつとりしてゐて、文章が鋭くて、気持がいいのだ。世事に倦んだとき心を洗ふに適してゐる。

丸谷才一『いろんな色のインクで』(マガジンハウス、2005)

2016年5月15日 (日)

J・M・シング『アラン島』

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みすず書房の叢書「大人の本棚」はこれまでに岩本素白、小沼丹、スティヴンスンなど何冊か読んだが、そのどれもが静かで深々とした味わいがあり、すっかり気に入ってしまった。そんなわけで、もう一冊また読んでみることにした。

ジョン・ミリントン・シングという作家は初めてだ。文学を志しながら悶々としていたシングは、友人の詩人イェイツにすすめられてアラン諸島に渡った。そこでの体験がこの本にまとめられている。

アラン諸島を訪れたシングは島の人たちや暮らしにすっかり惚れ込んだという。そのことはこの紀行文の随所に表れているところだが、本書は同時にまた、土地に馴染み、そこの人たちにすんなりと受け入れられたシング自身の人柄も映し出しているようだ。

この本にはところどころにアラン諸島の生活を描いた挿絵が収録されていて楽しい。これは、先の詩人イェイツの弟、ジャック・B・イェイツのものとのこと。

アイルランドは僕には想像すらできない土地だ。この本を読みながら、僕は、村上春樹の『もし僕らのことばがウィスキーであったなら』の中の、いかにも風の強そうな荒涼たる台地の写真を思い出していた。

本書は長らく昭和 12 年刊の岩波文庫版で読み継がれてきたという。今回の新訳にあたって、訳者の栩木氏が次のように述べているのが興味深い。この叢書の特徴を示しているようでもある。

シングのテクストは百年まえの紀行文だが、原文に付着した時代の錆をだましだまし、ていねいに磨きをかけてみたら、にわかに輝きを増しはじめ、人物たちがいきいきと躍動しはじめたので、とても驚いた。

J・M・シング著 栩木伸明訳『アラン島』(みすず書房、2005)

2016年4月24日 (日)

ホイットニー・バリエット氏のライナー・ノーツ

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ジャズ評論家の粟村政昭氏の著書を読むと、米国の評論家ホイットニー・バリエット氏の表現が引用されている箇所にぶつかる。たとえば、『ジャズ・レコード・ブック』(東亜音楽社)のフィリー・ジョー・ジョーンズの項ではこんな具合である。

ともあれ彼のドラミングは、ホイットニー・バリエットがいみじくも表現したように good old-fashioned emotion に貫かれたものであり、モダンでありながらジャズ本来の伝統を強く感じさせるところにその身上があったわけである。

そこで、文学的と形容されるバリエット氏本人の文章はどんな感じなのだろうと思い、手持ちのレコード・ジャケットのライナー・ノーツから彼のものを探した。見つけたのは、ジョン・ルイスの『グランド・インカウンター』一枚のみ。粟村氏がしばしば引用するもう一人の評論家マーティン・ウィリアムズ氏の文章が多くのレコードのラーナー・ノーツに見つかるのとは対照的だ。

その『グランド・インカウンター』のライナー・ノーツはおよそジャズの表現らしくない Nostalgia is cheap witchcraft. という一文で始まる。これに続き、スウィング時代の数々の巨人たちを賛美し、ときには現在(1950 年代半ば)の最前線の演奏家たちに強烈な皮肉を放ち、ジャズが失ってしまったものを嘆く。

バリエット氏のジャズ批評の根拠はスウィング時代の演奏にある。『グランド・インカウンター』でのジョン・ルイス以下の演奏家たちは、スウィング時代の巨人たちの伝統を継承しているがゆえに優れている、とでも言っているようだ。モダン・ジャズのレコードに彼のライナー・ノーツが少ないのも、このような彼の批評態度からきているのかもしれない。

バリエット氏は 1954 年から 2001 年までの間、『ザ・ニューヨーカー』誌でジャズや書評のコラムを持っていたというが、どんなジャズを取り上げていたのかはもちろんわからない。

ところで、文学的であると形容されるバリエット氏の文章は、多彩なレトリックをふんだんに用いたもので、僕には何を表現しているのかわからない箇所が多かった。たとえば、ルイスたちの演奏を表現した interdependent relaxation という言葉。どんな用法があるのか Yahoo! で検索したら、結果はたったの 4 件。そのうちの 1 件はこのライナー・ノーツをそのまま掲載したページだった。

Grand Encounter (Pacific Jazz)

Love Me or Leave Me
I Can't Get Started
Easy Living
2 Degrees East - 3 Degrees West
Skylark
Almost Like Being in Love

Bill Perkins (tenor sax)
John Lewis (piano)
Jim Hall (guitar)
Percy Heath (bass)
Chico Hamilton (drums)
Feb. 10, 1956, LA

2016年3月27日 (日)

堀江敏幸『余りの風』

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堀江敏幸の『余りの風』は、ほかの作家の著書に寄せたあとがきや雑誌に掲載された散文をまとめたもの。書評のような体裁なのだが、本の出版に深く関わった過程から生み出された散文であり、著書との距離はさらに近いように感じる。

たとえば、フィリップ・ソレルスの『神秘のモーツァルト』。本書を訳出していた最中にたまたまパリ行きが実現して、原著者に直接会い、インタビューを行うことになった。そのときの生き生きとしたやり取りが楽しい。

『神秘のモーツァルト』の訳者あとがきの最後には次のように記されていて、この本を手にとってみたいと思わずにいられない。

第一部と第二部以後では、テンポや調性に微妙なちがいがあり、ときには気まぐれが記述に流れと勢いを生んでいるとしか見えないところもある。ただし、息継ぎのタイミングは、けっして変わらない。構成の不協和音をまとめる基調音が節目で響いて、息を、風を、身体を生々しく感じさせずにおかないのだ。初読のときにそれを体感できなかったら、私はこの『神秘のモーツァルト』を訳出しようなどとは、たぶん思いもしなかっただろう。

ほかに、『早稲田文学』に寄稿された植草甚一論が面白い。ここでは、映画やジャズや散歩の J・J 氏ではなく、フランス文学紹介者の彼が論じられている。堀江氏は次のように J・J 氏へ賛辞を惜しまない。

断っておくが、植草甚一はアカデミズムを毛嫌いしたり、理由もなく学者を批判するような狭量な人物ではなかった。興味ある作家であれば、大学出版局から出ている研究書の類にまできちんと目を通していた。活動分野や専門を意識しない、つまり《分類しない》散策の精神を、ごく自然に発動させていただけのことなのである。

堀江敏幸『余りの風』(みすず書房、2012)

2016年2月22日 (月)

村上春樹 編・訳『セロニアス・モンクのいた風景』

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セロニアス・モンクについて、レコード会社創業者の妻、演奏家、評論家、レコード制作者、記者、後援者らが書いた記事を、村上春樹が翻訳し編集した本が出ていたので読んでみた。一人のジャズ演奏家に関係した人たちの記事を集めて一冊の本ができるというのも、モンクならでのことではないかと思う。

記事のほとんどは、モンクがミントンズ・プレイハウスに出演していたころ、ブルー・ノートから最初のレコードが出たとき、それに、リヴァーサイドと契約し次々と録音を重ねていった時期、つまり、長い下積み時代を経てようやく世に認められるまでに触れたもの。とりわけ、リヴァーサイドのレコード制作者オリン・キープニューズの録音時の逸話が興味深い。

モンクは寡黙で頑固で偏屈で、さらに奇行で知られていたけれど、純粋で親切な男だったようだ。この本を読んでいると、無性に彼のレコードが聴きたくなってくる。

村上春樹 編・訳『セロニアス・モンクのいた風景』(新潮社、2014)

2015年12月17日 (木)

高井有一『時のながめ』

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新聞に高井有一の随筆集『時のながめ』の広告が載っていて、気に留めていた。先日、書店に入ったらこの本があって、小ぶりなうえに装幀がとても美しいので、すぐに買い求めた。『時のながめ』は著者九年ぶりの随筆集とのこと。

この作家のことであるから戦争に対する想いが語られるのは当然としても、郷里の角館町のことを綴ったものがいくつかあって意外な気がした。これまでは固有名を慎重に伏せてきたはずだと思ったのだが。

また、亡くなった人たちのことを綴った文が多いようにも思った。その中に志ん朝や小さんの名前が出てくるのもちょっとした驚きだった。高井氏が落語に関心を持っていたのは初めて知った。

僕は高井有一の小説の静かな語り口が好きだった。雨の一日、周りの音が遮られた部屋の中にでもいるような、ひんやりした静けさがことのほか好きだった。

もうずっと前のことだが、僕は秋田の近代美術館で高井有一氏の講演を聞いたことがあった。美術評論家の高階秀爾氏が司会を務め、高井氏は郷里出身の画家平福百穂や、ご自身の祖父田口掬汀のことを語ったのだったが、温和な表情で静かに、予定の一時間半を寸分違わず律儀に纏めあげた講演を、この随筆集を読みながら思い出していた。

高井有一『時のながめ』(新潮社、2015)

2015年11月29日 (日)

『音楽史を変えた五つの発明』

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ハワード・グッドールの『音楽史を変えた五つの発明』を読んだ。グッドールは英国生まれの作曲家で、八歳で聖歌隊員、その後音楽を学び、合唱曲やミュージカル、テレビ番組の音楽を担当しているという。本書は放送番組をもとに執筆されたもの。

で、本書で取り上げた五つの発明とは、楽譜、オペラ、平均律、ピアノ、蓄音機。西洋音楽の歴史を考えたとき、その画期的な出来事としてだれでもが思い浮かべるのは楽譜と平均律で、さらにもう一つ付け加えるとすれば、それまでのルネサンス期の音楽では語れなかったドラマを生み出すことのできたオペラなのかもしれない。これにピアノと蓄音機が加えられているのが興味深いところで、作曲家としての著者の個性が表れているようだ。

これら五つの発明が順に解説されているのだが、かなり大胆に語られているのは放送原稿をもとにしているからかもしれない。また、現代のピリオド楽器による演奏に相当に懐疑的な様子もうかがわれる。これは筆者が音楽史を専門とする学者ではなく、放送現場で活躍する作曲家であるという事情があるのだろう。

たとえば、蓄音機の項にはこのような鋭い皮肉を含んだ記述が見られる。

モレスキは当時(1902 年)存命だった最後のカストラートである。(中略)当時六十代になっていたモレスキによる録音は、人類が耳にすることのできる音声の記録のなかでも、最も忘れることのできない、そして正直に言えば、最も背筋の寒くなる録音だ。(中略)当時は息を飲むような美しさだと称賛され、繊細で上品だと見なされた歌声が、現代人の耳には発情期の猫の鳴き声のようなぞっとする音に聞こえることもある。このような経験は、「原典に忠実(オーセンティック)な」演奏の再創造を掲げ、その研究に余念のない昨今の音楽家にとって、痛烈な警鐘となるだろう。


「古楽」あるいは「ピリオド」楽器の演奏家による録音の場合、録音を途中で何百回でも止められるということは大きな恩恵をもたらした。というのも、彼らが使う古いタイプの楽器は現代の楽器と違って不安定で、頻繁に調律をしないとすぐに音程が狂ってしまうからだ。「ピリオド」楽器と、「オーセンティック」な楽譜を使って、「古楽」を聴くことができるのは、最新のコンピュータ技術のおかげなのだ。

音楽史の研究者であればおそらくこんな言い方はしないだろう。それにしても、カストラートを引き合いに冷水を浴びせかけられたりするのは、古楽演奏家にも想像できなかったにちがいない。

ハワード・グッドール 松村哲哉訳『音楽史を変えた五つの発明』(白水社、2011)

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