随筆・評論

2018年6月 7日 (木)

庄野潤三『ガンビア滞在記』

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庄野潤三の『ガンビア滞在記』を読んだ。2005 年、みすず書房の叢書「大人の本棚」からの一冊。原本は 1959 年、中央公論社から刊行されたもの。

庄野潤三は、米国のロックフェラー財団が授与する奨学金を得て、昭和 32 年の秋から翌年の夏までの間、ケニオン・カレッジに留学し、オハイオ州ガンビアに滞在した。本書はそのときの滞在記である。ちなみに、この留学制度の第一回目に選ばれたのは福田恆存と大岡昇平とのこと。庄野潤三が何回目だったのかは本書の解説には記述がない。

ガンビアはケニオン・カレッジの開校とともにはじまった町で、当時の人口は 600、戸数が 200 だったという。こんな小さな町に滞在することになったのは、庄野自身が、できるだけ小さな町に行って、その町の住民の一員のようにして暮らすことを希望していたからだそうだ。

このようにして始まった庄野潤三の米国行きであるが、滞在記は初めから全くの自然体で推移する。戦後間もなくの外国でこんなにも自然に暮らせたのかと思うと、奇跡のようだ。解説では「庄野夫妻はガンビアに着いたその日から小さな町の住民になりきったのである」と記されている。

文章が若々しく、溌剌としている。

庄野潤三『ガンビア滞在記』(みすず書房 大人の本棚、2005)

2018年5月 2日 (水)

須賀敦子の作品の秘密

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生物学者の福岡伸一さんの記事が週に一度新聞に載っていて、これを読むのを楽しみにしている。先週は「読まれ続ける秘密」という題で、イタリア文学者で作家の須賀敦子を紹介していた。

須賀敦子は今年没後二十年に当たるのだが、いまだに熱心な愛読者が多いという。穏やかでやさしい端正な文体。でも、彼女の作品に心ひかれるのは単に文章が美しいからだけではない。どこに秘密があるのか。福岡さんはこう述べている。

彼女の物語はいつも「私」が自分のイタリア生活を回想するかたちで始まるが、作品を読み進めるうちに、いつしか「私」は消える。つまり、彼女の作品は自伝ではなく、どれも小説なのだ。

では、何が文章を小説たらしめるのか。それは、「私」の物語に見えたものがあなた(読者)の物語に転ずることによる。本を読む私は、いつの間にか自分を物語に重ね合わせ、励まされていることに気づく。須賀敦子の秘密がここにある。

福岡伸一さんの分析は鮮やかだが、普通に読んだだけでも、彼女の作品は、文章が静かで美しく、また、読者にまとわりつかない適度な距離感が心地よい。

須賀敦子『ミラノ 霧の風景』(白水社、1990 年)

2018年2月11日 (日)

T. E. カーハート『パリ左岸のピアノ工房』

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三年前からパリの左岸に住んでいた著者は、ある日、近所の通りにピアノの修理屋らしき店を発見する。ショー・ウィンドウにピアノの部品や調律の道具がいくつか無造作に置いてあるだけの店。やがて彼は思いきってその店のドアをあけてみる。

こんなふうにして始まる、パリの裏町のピアノ工房の物語。しかし、これは物語ではあるが、小説ではない。登場人物はすべて実在するというから、ノンフィクションと呼ぶのが適切なようだ。

著者について詳しくはわからない。カーハートはアメリカ人で、少年時代をフランスで過ごしたあと、アメリカにもどった。若いころは東京にも住んだことがあり、本書刊行当時はフリーランスのライター兼ジャーナリストとしてパリに住んでいたとのこと。

無名の作家が世に送り出したこの物語は、何よりも一文一文に著者の誠実さが表われ、音楽やピアノに注ぐ愛情が感じられる。また、工房の経営者、ピアノ教師、調律師などが生き生きと描かれている。

著者は巻末の「謝辞」で、本書の登場人物がすべて実在の人物であるとことわったうえで、こう述べている。

どうかリュックやマティルドやほかの人たちを探そうとしないでいただきたい。彼らは発見されるのを待っているわけではないのだから。彼らに共通するのは〈慎み〉(ピュドゥール)を尊重するというきわめてフランス的な態度である。これを〈プライバシー〉と訳すのは適当ではないだろう。というのも、そこには謙虚さや最低限の礼儀という重要な要素が含まれているからである。

この文からも、本書がテレビのドキュメンタリー番組を制作するような態度で書かれたものではないことがわかる。

T. E. カーハート、村松潔訳『パリ左岸のピアノ工房』(新潮クレスト・ブックス、2001)

2017年10月 6日 (金)

チャールズ・ラム『エリア随筆抄』

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チャールズ・ラムの『エリア随筆抄』を読んだ。

ラムは十九世紀初めの文筆家で、英国随筆文学の完成者として知られているとのこと。その作品は我が国の英文学者たちに愛され、彼らは「一種の象嵌細工のような趣」「極めて精緻な用意を以て成る…技巧の神」などと評しているようだ。

ラムの『エリア随筆集』は本来は正続二巻からなる大著で、最近になって正篇続篇合わせて四分冊の完訳が国書刊行会から刊行されたばかりだが、これまではもっぱら抄訳で読まれてきたようだ。

僕が読んだのも正篇から十篇、続篇から六篇採られたもので、みすず書房「大人の本棚」の一冊。2002 年発行となっているが、底本は 1953 年の角川文庫である旨記されている。

さて、二百年前に書かれたこれら随筆の各篇だが、ほとんど古さを感じずに読み進めることができた。もっとも、抄訳であることを考えると、訳者が現代に通じるもののみを選択したという可能性もありうるのだが・・・。

中では、生涯独身だったラムが、もし若い日に恋人と結婚していたら生まれていたかもしれない子供たちとの日々を夢見る『幻の子供たち』や、老境に入ろうとするラムと姉が、慎ましい生活を送っていた昔のお茶の時間を懐かしむ『古陶器』は、幻想的な雰囲気を漂わせた作品で、胸を打つ。

チャールズ・ラム、山内義雄訳『エリア随筆抄』(みすず書房、2002)

2017年9月20日 (水)

原田治『ぼくの美術ノート』

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原田治の『ぼくの美術ノート』を読んだ。

イラストレーターの原田治は雑誌「アンアン」の創刊号から活動し、とても有名な存在だったという。でも僕は、彼の著書『ぼくの美術帖』がみすず書房の叢書「大人の本棚」に収められていたことで、初めてその名前を知った。女性雑誌を読む習慣などないから当然のことかもしれない。

『ぼくの美術ノート』は雑誌「芸術新潮」に連載されたコラムを纏めたもの。古今東西の画家、写真家、漫画家たちを取り上げている。

まず、詩人であり、グラフィック・デザイナー、イラストレーターでもあった北園克衛。前書きに『美術帖』と同様、北園の言葉を引用している。

「美」とは本来 無価値なものである
風景や空の雲が無価値であるというような意味において

北園が晩年、エラリー・クイーンの推理小説のカバーをデザインした中から『緋文字』が取り上げられている。鮮やかな緋色の円形を不安定な位置に置くことで、人妻の困惑が連想され、やがて起こる殺人事件の血の色が想起される。

次に小村雪岱。著者は雪岱をことのほか評価していたようだ。本書でも木版画、新聞小説の挿絵のほか、歌舞伎の舞台装置や美術考証、さらには映画の美術まで、多岐にわたる仕事を繰り返し紹介している。

さらに、映画の衣装デザイナー、イーデス・ヘッド。彼女が手がけた数多い作品の中からヒッチコック監督の『裏窓』。物語の進行を、グレース・ケリーの衣装を変化させることで視覚表現する鮮やかさ。

原田治は 2016 年に亡くなったのだが、その直前まで続けていたブログ原田治ノートがまだ読めるようになっている。

原田治『ぼくの美術ノート』(亜紀書房、2017)

2017年6月25日 (日)

丸谷才一、湯川豊『文学のレッスン』

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新潮選書から丸谷才一『文学のレッスン』が刊行されたので読んでみた。

先ごろ廃刊になった新潮社の季刊誌『考える人』の 2007 年春号が「短篇小説を読もう」という特集で、丸谷才一との対談を掲載していた。これが好評だったのか、次に「長篇小説」も特集したのだが、これで終わらず、対談はその後も「伝記・自伝」「歴史」「批評」「エッセイ」「戯曲」「詩」と続いたのだそうだ。これらをすべて盛り込んで 2010 年に単行本、2013 年に新潮文庫となり、さらに今回の新潮選書となったのだ。聞き手はいずれも湯川豊。

丸谷氏は古今東西の文学を奔放に語って、こちらの理解がついていかないところもあるが、それでも読んでいて実に楽しい。

その中の一つ、「演劇」の項では、

演劇が祭祀から始まったというのは説得力のある意見だと思うんです。(中略)それがいちばんはっきりするのは、歌舞伎の襲名披露などの口上ですね。(中略)舞台に座った役者たちがみな公式的な格式ばったことをいっていると、一人だけおどけたものがいて、(中略)。あれはコミック・リリーフというもので、どっと笑いをとることで気分がさっと変る。そうなるとこれはやはり芝居ですね。祭祀のなかに芝居がある。そしてお客はそれに参加することで陶酔する。

とあって、なるほどなあと思った。

丸谷才一、聞き手 湯川豊『文学のレッスン』(新潮選書、2017)

2017年5月 6日 (土)

堀江敏幸『音の糸』

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著者初の音楽エッセイとのこと。演奏会よりもレコード音楽に関するエッセイが多く、普段もっぱら LP や CD ばかり聴いている自分にはとても身近に感じられる。

ある日、電車に乗ったら、入口近くにヘッドフォンをした若者が立った。彼が鞄から CD ケースを取り出した。これを左手に持ち、右手を鞄に入れてポータブル CD プレーヤーを操作し、それまでの CD を取り出し、左手のものと入れ替えた。この一連の動作を、手元に目をやらず、ずっと外の景色を眺めながら行う。データ用 CD に手書きされた曲名が《月に憑かれたピエロ》。いまどきポータブル CD プレーヤー、そしてこの曲名に感銘を受ける。(「昼の月」)

フリードリヒ・グルダが、書き溜めてきたノートを一冊の本『音楽への言葉』にまとめた。この中の《get that edge off!(その角をとれ!)》から。私は《ハーフノート》でアート・ファーマーと共演した。そのあとで彼は、ジャズのサークルでも普通にやるような「おい、すごいぞ君は」というような儀礼的な嘘はつかなかったのだ。その代り、もっと「角を研ぐようにしなよ!」といったのだ。この善意ある建設的な批評に感謝しつつ、僕は自分の中に入っていった。(「その角をとれ」)

リヒテルはその著書の中で、バッハの《平均律クラヴィーア曲集第二巻》から連想される風景を順々に語りながら、《第四番嬰ハ短調》の前奏曲に到って、突然、白いさんざしにまつわる父母の思い出に触れ、プルーストの一節を引いてこう述べている。「さんざしは、恵み豊かだ。しかし、その内面に入り込むことを許しはしない。何度演奏しても謎を解き明かすことのできない音楽に似ている。果たして私はこの前奏曲の謎を解き明かせるのだろうか」(「リヒテルとさんざし」)

音楽好きには格別のエッセイ集。

ネウマ譜の一部をあしらったカバーが美しい。

堀江敏幸『音の糸』(小学館、2017)

2017年4月21日 (金)

丸谷才一編著『ロンドンで本を読む』

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丸谷才一の随筆を読んでいると、たまにイギリスの書評について書いたものにぶつかる。イギリスの書評がいかに程度が高くて、しかも楽しめるものであるかを力説しているのだが、そのたびに「なるほど」とか「そうだろうな」とか思うだけだった。実際にその書評を読んでいないのだから、仕方がない。

それではというので、書評そのものを翻訳し、それをまとめて一冊にしたのが本書というわけだ。

取り上げられているのは新刊にかぎらない。再販されたものがあり、英訳された外国の小説があり、写真集まである。それに、イギリスの書評は長さがまちまちで、かなり長い論文風になっているのもある。

内容はかなりむずかしいが、本質を射抜いて、ハッとさせられる箇所も多い。たとえば、村上春樹『象の消滅』の書評、リチャード・ロイド・パリー、小野寺健訳『わんさかワタナベ』はこんなふうである。

この滑稽で不気味な短編集には奥行きが欠けているとすれば、それはこれらの短編がぜったいに答えや慰めをあたえようとしないからである。この短編集の世界では、だれ一人満足していないし、本物とも思えない。洞察力も猜疑心も想像力も、役に立たないのだ。

本書で丸谷才一は次のように述べている。

対象である本を罵つて読者に快哉を叫ばせるのがよい書評だと思つてゐる人もゐるけれど、わたしに言はせれば、原則的には、さういふ本は取り上げる必要がない。大事なのは、読むに価する重要な本の重要性を、普通の読者に向けてすつきりと語ることなのである。

これはつまり、書評者がどの本を取り上げるのかが重要であるということなのだろう。

無意味な罵りやおためごかしとは一切無縁の一冊。

丸谷才一編著『ロンドンで本を読む』(マガジンハウス、2001)

2016年5月26日 (木)

丸谷才一『いろんな色のインクで』

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丸谷才一の随筆を読むのは楽しい。氏が亡くなったあとで刊行された『最後の挨拶』(集英社)が出たとき、作家の池澤夏樹が、(丸谷才一の随筆を)もう読めなくなるのかというのと、まだ読めるのかというのとがないまぜになった気持ちを述べていたのが印象的だった。

『いろんな色のインクで』は書評をまとめた一冊。書名は、原稿を書くとき、さまざまな色のインクを使うことからきている。インクの色を変えると元気が出るのだそうだ。ちょっとポップな装幀は和田誠。

はじめに、「藝のない書評は書評ぢやない」と題するインタビューが収録されていて、ここで、書評には大事なことが三つあるという氏の考えが述べられている。それは、本の選び方、話の要約と批評、藝と趣向の必要というもの。なるほどなー。

本書は、ほとんど知らない作家のものが取り上げられていて、それもかなりの分量なのだが、ふと目にした文章が、奇しくも、僕が丸谷才一の随筆を読むときに感じる気持ちをそのまま表している。

『世説新語』が好きで、ときたま読む。話がおつとりしてゐて、文章が鋭くて、気持がいいのだ。世事に倦んだとき心を洗ふに適してゐる。

丸谷才一『いろんな色のインクで』(マガジンハウス、2005)

2016年5月15日 (日)

J・M・シング『アラン島』

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みすず書房の叢書「大人の本棚」はこれまでに岩本素白、小沼丹、スティヴンスンなど何冊か読んだが、そのどれもが静かで深々とした味わいがあり、すっかり気に入ってしまった。そんなわけで、もう一冊また読んでみることにした。

ジョン・ミリントン・シングという作家は初めてだ。文学を志しながら悶々としていたシングは、友人の詩人イェイツにすすめられてアラン諸島に渡った。そこでの体験がこの本にまとめられている。

アラン諸島を訪れたシングは島の人たちや暮らしにすっかり惚れ込んだという。そのことはこの紀行文の随所に表れているところだが、本書は同時にまた、土地に馴染み、そこの人たちにすんなりと受け入れられたシング自身の人柄も映し出しているようだ。

この本にはところどころにアラン諸島の生活を描いた挿絵が収録されていて楽しい。これは、先の詩人イェイツの弟、ジャック・B・イェイツのものとのこと。

アイルランドは僕には想像すらできない土地だ。この本を読みながら、僕は、村上春樹の『もし僕らのことばがウィスキーであったなら』の中の、いかにも風の強そうな荒涼たる台地の写真を思い出していた。

本書は長らく昭和 12 年刊の岩波文庫版で読み継がれてきたという。今回の新訳にあたって、訳者の栩木氏が次のように述べているのが興味深い。この叢書の特徴を示しているようでもある。

シングのテクストは百年まえの紀行文だが、原文に付着した時代の錆をだましだまし、ていねいに磨きをかけてみたら、にわかに輝きを増しはじめ、人物たちがいきいきと躍動しはじめたので、とても驚いた。

J・M・シング著 栩木伸明訳『アラン島』(みすず書房、2005)

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