雑誌

2016年9月 4日 (日)

仮綴じ本からフランス文学

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集英社の読書情報誌『青春と読書』の九月号をパラパラと読んでいたら、翻訳家の鴻巣友季子と作家の堀江敏幸の対談が載っていた。集英社文庫のポケット・マスターピースがまもなく完結するので、その編集に関わった二人がアンソロジーの意味を語るというもの。

対談の冒頭、鴻巣氏がなぜフランス文学に接近したのかと尋ねるのだが、その理由を述べる堀江氏の答えがなかなか面白い。

堀江氏ははじめ国文学をやりたいと思っていたところ、たまたま第二外国語でとったフランス語のほうに興味が移ったのだそうだ。また、フランス文学が好きだったではなく、フランスの文芸書の形、つまり、仮綴じ本の形がとても好きで、こういう本の形を許容してくれるなら悪くないなと思ったのがフランス文学との出会いだったという。

もちろん、これだけが理由のすべてではないだろうが、本の佇まいに惹かれてその世界に入っていくというのが、いかにも堀江氏らしいと思った。『もののはずみ』『目ざめて腕時計をみると』などの著作はこのような感覚から生み出されたものなのだろう。

『青春と読書 九月号』(集英社)

2016年5月 3日 (火)

『考える人』特集「直して使う」

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新潮社の季刊誌『考える人』の広告を見ていたら、2006 年春号の特集が「直して使う」で、この中に串田孫一と堀江敏幸を取材した記事があったので、バック・ナンバーを取り寄せてみた。

串田孫一の随筆を読むと修繕についての話が頻繁に出てくるから、「直して使う」という特集で彼を取り上げているのは当然のことだ。生前の仕事場の写真が載っていて、本や資料がうず高く積まれている。一見、取り散らかっているように見える書斎も、執筆が仕事である人にはきちんと整理されているのかもしれない。『古い室内楽』(筑摩書房、1961)の中の「こわれる」が転載されていて、次のような文章で結ばれている。

私はそんな風に、品物を直していつまでも使っているので、けちのように思われることもあるが、私の方から言わせてもらえば、品物をぞんざいに扱い、こわれたらこわれたでぽいと捨ててしまう人は嫌いである。そういう人は人間をも自分をも大切に扱えない人のように思えるからだ。

堀江敏幸には『もののはずみ』という、蚤の市などで買い集めた品物をまとめた写真入りの著作があって、彼もまた筋金入りのガラクタ愛好家である。『考える人』には彼のお宅が何枚かの写真で紹介されている。

その中に、修理しながら使い続けているアップル社のマッキントッシュ SE/30 が机に載っていたり、精巧社の 14 日巻きの柱時計が壁に架かっていたり、アイドラー・ドライブのレコード・プレイヤー、ガラード 401 が書斎で使われているなど、これらの佇まいが実にいい雰囲気を作り出している。「およそ新しいものが見当たらないお宅である」という記事に唖然とする。

こういう品物に囲まれた生活があって、彼のあの静かな小説が生まれるのかとあらためて思った次第。

『考える人』(新潮社、2006 年春号)

2014年6月 9日 (月)

原田マハさんの『絶対絵画』

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集英社の読書情報誌『青春と読書』をパラパラ読んでいたら、新しく原田マハさんの連載が始まっていました。

と言っても、僕は原田さんは名前を覚えているだけで、小説はまだ一冊も読んだことがないのです。それでは、どうして名前を覚えているのかというと、それはやはりゴヤの絵を連想させるから。ご自身もきっと絵がお好きに違いないと思っていました。

連載が始まるに当たって、彼女の略歴が掲載されています。ここに、美術館に勤務後、フリーのキュレーターをして活動、と記されていて驚きました。絵がお好きどころか、美術の専門家なのでした。失礼しました。

この新連載は『絶対絵画』と題し、「生きているあいだに観るべき 24 点の作品たち」の副題が付いたものです。この「絶対絵画」について、原田さんはこんなふうに述べています。

一枚の絵画に秘められた、強烈な力。何もかも変えてしまうほどの革新的な表現。抜きん出た技術。あるいは、画家の思想。先見性。個性。

この一枚の絵があったから、美術史は大きな転換を迎えた。あるいは、あたらしい美術の時代が始まった。後世の芸術家たちが大きく飛躍できた。

こういう絵画を、「絶対絵画」といつしか私は呼ぶようになった。

連載の第一回はピカソ『アヴィニヨンの娘たち』。この種の情報誌にしては珍しく美しい口絵が付いています。

副題のとおり 24 点が紹介されるとすると、二年を要することになりますが、これは楽しい二年間になりそうです。

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2013年12月29日 (日)

懐に入られる

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『小説推理』誌 12 月号の頁を捲っていたら、乃南アサさんの随筆『犬棒日記』に、オレオレ詐欺のことが載っていました。乃南さんのお母さんの友だちが詐欺の被害に遭ったのだという。

米寿を迎えてはいたけれど、記憶力も判断力もしっかりしているので、どうしてだろうと首を傾げていたが、すぐに「なるほど」という気になったのだそうだ。というのは、その方は無類の世話好きなうえに、心配性で、家族愛が強い。

詐欺師からの電話で、可愛い孫が窮地に立たされたと聞いた瞬間、昔ほど頼られなくなった彼女は、今こそ出番だ、孫を助けられるのは自分だけだと、息せき切って銀行に向かったのだろう。

つまり、あの手の詐欺は、高齢者の判断力の低下などばかりではなく、その人の家族への愛や、今も必要とされている感じを実に巧みに利用しているに違いない。不審な電話を受けたら、すぐ本人に確かめること、などと繰り返されてもなかなか被害が減らない理由はこのあたりの心情にあるらしい。

というのがこの随筆の内容。つまり、本人確認などに重点を置いた予防策も、相撲でいうところの差し手争いの段階にとどまっている、とでも言ったらいいのか。電話を受けた瞬間、あっという間に懐に入り込まれた被害者にとって、すでにこれらの予防策は後手に回っている。

こうなると、この種の手口は、稀代の詐欺師のそれというしかないけれど、それにも増して、この随筆はオレオレ詐欺の本質を正確に射抜いていて、見事です。

2012年11月11日 (日)

アナログへの想い

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今、音楽之友社の『レコード芸術』誌に「俺のオーディオ」と題する記事が連載されている。十月号は連載六回目で、音楽評論家の吉井亜彦さんがアナログ・レコードについて語っている。

吉井さんのアナログへの想いは記事の小見出しにも表れている。

・「オーディオ」とは己の存在理由なのだろうか
・やっぱり、どうしても身体になじまないのである
・「CD 時代」はある日、突然に到来した
・時代が「フォーマット」からはみ出し始めた
・「LP」の無念に想いを馳せて

ここで吉井さんが述べているのは、アナログの方がデジタルよりもナマに近いとか、特性が優れている(むしろ、劣っているのだろうが)というのではなくて、どちらの音も実際の音楽とは違っているが、その違い方が違っていて、アナログの違い方が自分には好ましいということなのだ。

そして、音楽、芸術の世界にそれなりに力を尽くしていたはずのアナログが、こういった世界とは全く異なる別世界の価値観でもって志半ばで表舞台から追いやられた無念を想い、ターンテーブルを始動させ、針圧を調整し、針先の埃を払い、盤面を掃除し、ゆっくりと針を落として出てくる音楽に浸る。

これはアナログ・レコードを愛好する人たちに共通した想いにほかならない。

CD の扱いやすさや特性上の優位さをもってアナログ愛好家を説得しようとしても、無駄骨に終わることは目に見えている。アナログ愛好家にとっては、アナログもデジタルも実際の音楽とは違っているけれども、アナログの違い方の方が好ましいのだから。

2010年12月25日 (土)

吉田秀和と堀江敏幸の対談

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集英社の読書情報誌『青春と読書』一月号に吉田秀和と堀江敏幸の対談が載っています。歌曲を題材にした吉田さんの『永遠の故郷』四部作が完結した記念の対談なのです。

二人の対談を読むのは楽しい。そして、この短い記事の中で、思わず目を留める言葉に出会います。たとえば、

ゲーテがいったように、自分のことをほんとうに語ろうとすると、「詩と真実」になるんですね。フィクションがあるからこそ真実を語れる。フィクションなしの真実というのは新聞記事と同じになってしまう。そうではない真実を語ろうとしたときに、歌というのは、人の心のなかで欠くことのできない働きを演じていると思う。

これは、僕には、歌を含めて芸術がなぜ人生においてかけがえのないものなのかという問いに対する答えであるように思います。

文庫本とマフラーとダッフル・コートとトート・バッグ。表紙の絵が素敵ですね。

2009年10月 3日 (土)

『SF マガジン』J・G・バラードの追悼特集

Sfmagazine 早川書房の『SF マガジン』11月号は、この 4 月に亡くなった J・G・バラードの追悼特集になっている。内容は、未発表一篇を含む中短篇四篇、追悼エッセイ、著作リストなど。

四篇のうちではまず『コーラル D の雲の彫刻師』。短篇集『ヴァーミリオン・サンズ』の冒頭を飾る作品だ。

題名に現れる「コーラル D」「雲の彫刻師」、続いて本文の「ヴァーミリオン・サンズ」「ラグーン・ウェスト」という地名、さらには「珊瑚塔」「砂礁脈」「音響彫刻」「砂鰾(すなえい)」などの言葉が近未来のリゾート地を舞台としたこの作品のイメージを形作る。ついで、片脚を骨折し、二度と空を飛ぶことのできない退役パイロット、醜いせむしの小男、美しいが気の狂った女などの登場人物が退廃的で終末的な雰囲気をただよわせながら、物語を悲劇的な結末に導く。

やはり、この作品はバラードの代表作であり、追悼特集に再掲されるにふさわしいものであった。

そのほかには、著作リストが貴重な資料であると同時に、ここに並列されたバラード自身のコメントが興味深い。ここで、彼は『ヴァーミリオン・サンズ』についてこう語っている。

ヴァーミリオン・サンズはどこにあるのだろう? おそらくはパーム・スプリングズとホアン・レス・ビンズとイパネマ・ビーチのあいだのどこか。ヴァーミリオン・サンズははっきりとビーチ・リゾートだが、言うまでもなく海はない。ビーチはどこまでも、あらゆる方向に伸び、隣りあったリゾート地のビーチ、住人たちの昼下がりの精神と混じりあう。ヴァーミリオン・サンズに戻りたい気持ちはますます強くなっている。今度はもう戻ってこないつもりだ。

彼は今、自ら創造したリゾート地で静かな生活を送り、言葉どおり、もう僕らの前に再びその姿を見せることはない。

2009年1月24日 (土)

井の頭の串田家

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『週刊文春』1 月 29 日号を読んでいたら、連載の「新 家の履歴書」に俳優の串田和美さんが載っていました。

串田和美さんは巣鴨に生まれ、山形に疎開し、巣鴨の家が戦災で失われて井の頭に移り、小金井に転居したのですが、いちばん思い出深いのが四歳から中学三年まで住んだ井の頭の家だったとのこと。

この井の頭の家が、屋根を取り除いた形で俯瞰されたイラストが載っています。離れのように突き出た部屋がお父さんである串田孫一さんの書斎で、「壁は全て本棚だった」と記されています。お父さんはここで書き物をしたり、絵を描いたりしていたそうです。

和美さんは、若い時は反発していたけれど、今になって父親の影響を感じ、井の頭にあったこの家の近くに住みたいと思うようになったと言っています。

今、北海道の斜里にある「北のアルプ美術館」に串田孫一さんの書斎を再現しようと準備しているのは小金井の家のものだそうです。

僕は筑摩書房から出た全集を持っている串田孫一ファンなのですが、書斎が完成したら、斜里の美術館に行ってみたいなあと思っています。

2008年10月26日 (日)

『考える人』秋号

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『考える人』秋号の特集が「堀江敏幸と歩くパリとその周辺」ということなので、さっそく買ってきて読んでいます。

堀江敏幸が、パリ郊外に住んで執筆を続けているジャン=ルー・トラッサールとミシェル・トゥルニエという二人の作家を訪ねる紀行文、ないしはエッセイのようなものになっています。どちらも知らない作家だし、トラッサールにいたってはまだ一冊も紹介されていないということなので、どんな作風なのかは知るよしもないのですが、記事の中の写真や堀江敏幸の文章からは二人を敬愛している様子がじんわりと伝わってきます。

二人とも高齢な作家で、トラッサールは万年筆で執筆し、タイプライターで浄書、トゥルニエもやはり万年筆で執筆し、パソコンで浄書するとのこと。どちらも浄書したものを出版社に渡すのですが、いいですね、こういうのは。

そのほか、堀江敏幸が革張り工房を訪ねた記事やパリの書店めぐりも載っていて、楽しいです。書店めぐりの中で、フランス綴じのアンカット版について「アンカット版はページを切らなければ本の役割を果たさないけれど、なんでもかんでも切ればよいというわけでもない。どうしても、という段になったときだけ覚悟を決めて読む本があってもいいのだ」と記していて、彼の本好きぶりが披露されています。

それから、この特集とは別に、第七回小林秀雄賞の選評が載っていて、選考委員の一人である堀江敏幸は、その前半にこんなことを書いているのにハッとしました。

書き手の側からすれば、ながい時間をかけて出来上がった文体が、やがてその文体の範囲内でしか表現できない軛となるという展開は自明であって、物書きはみな、そうとわかっていながら、壊すために一旦、その軛を作る。(中略)だから、自覚的な変化を自らに課す場合、外からわからない程度の微量の薬物を混入させて、徐々に内側から変容させていく方策を選ぶ。

なるほど、作家の変化とはこういうものだったのか。

僕は、村上春樹も川上弘美も最初期の作品群が好きだったのですが、作風が変化してからはほとんど読まなくなっています。堀江敏幸にしても『河岸忘日抄』では主人公を「彼」という三人称にするなど、それまでの作品からはちょっとした変化がみられましたが、この先にまた大きな変化が訪れるのかもしれません。

2008年2月 1日 (金)

吉田秀和と堀江敏幸の対談

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集英社の読書情報誌『青春と読書』二月号をパラパラ読んでいたら、吉田秀和と堀江敏幸の対談「音楽の恵みと宿命」が載っていました。これは、集英社の雑誌『すばる』に連載されている吉田秀和の巻頭エッセイがこの二月に『永遠の故郷−夜』という単行本で出版されることから記事になったようです。

この二人の対談は去年の夏にもあって、NHK テレビで放送され、また、新潮社の季刊誌『考える人』にも載ったのですが、全体にとても落ち着いた雰囲気だったし、聞き手の堀江敏幸の受け方が誠に的確で、読んでいてとても気持ちの良いものでした。

今回の対談で吉田秀和は「音楽はもっと音楽自身で語らせたい、音楽の領域で言葉と関係したいと思っていた」けれど、「自分のなかにはもっと言葉に近寄りたいという気持ちがあって、今度は音楽と文学の両方にわたるようなことを書いてみたいと思った」と述べています。そして、このエッセイは中原中也からはじまるとのことです。

単行本『永遠の故郷−夜』は吉田秀和の新しい魅力が感じられるエッセイのようです。

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