小説

2017年8月 8日 (火)

カーソン・マッカラーズ『心は孤独な狩人』

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カーソン・マッカラーズの処女作『心は孤独な狩人』を読んだ。

マッカラーズの小説は村上春樹の新訳『結婚式のメンバー』を除けば現在すべて絶版になっているが、『心は孤独な狩人』だけはなぜか電子書籍版が出ている。訳者は河野一郎となっているので、新潮文庫と同じ内容のようだ。

物語は少女ミックを中心に、同性愛者と思しき二人の聾唖者、カフェの主人、黒人医師、革命を夢想する男などによって展開される。ここでのミックは作者マッカラーズの分身と考えられる。

物語について訳者の河野一郎は、マッカラーズが出版社に書き送り創作奨学金を得たというこの作品の青写真に当たる資料を引用して、次のように解説している。

五人の孤独な魂の渇きと挫折が、均衡のとれた綿密なプランに従って「対位法的に組み立てられて」いる。(中略)「遁走曲(フーガ)におけるそれぞれの声部のように、主な登場人物は一人ひとりが完全なものであるが−−−−他の人物と対比され、編み合わされて、新しい豊かさを持つ」ように配置されているのだ。

物語の構造を音楽に喩えているのは、マッカラーズ自身がコンサート・ピアニストになる夢を持っていたことと切り離せないが、他のどのような解説にも増してこの小説の特徴と魅力を捉えていると思う。

カーソン・マッカラーズ/河野一郎訳『心は孤独な狩人』(グーテンベルク 21、2016)

2017年3月19日 (日)

堀江敏幸『その姿の消し方』

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留学生時代、古物市で見つけた 1938 年の消印のある古い絵はがき。廃屋としか見えない建物と朽ち果てた四輪馬車の写真の裏には、流麗な筆記体による一篇の詩が記されていた。やがて、一枚また一枚と、この会計検査官にして「詩人」であった人物の絵はがきが手元に舞い込んでくる――。

これが小説の発行元の紹介文。古書店で求めた本に書き込みがあったなどというのはよくある話にしても、古物市に絵葉書、それも宛名や通信文まで書き込まれたものまで売りに出されているということがあるのだろうか。

でも、とりあえず蚤の市はそういうところなのだとでもしておかなければ、読み進めることができない。これは、河岸に繋留された船に住むことになった話『河岸忘日抄』を読み始めたときのどうにも地に足の着かない感覚に似ている。

こうした浮遊感が最後まで消えずに小説は終わる。

現実味の乏しい設定をしつらえ、登場人物に動きを与える。それでいて、語り口はあくまで静か。実験臭など微塵も感じさせない。やはり、最前線の小説家だという気がする。

堀江敏幸『その姿の消し方』(新潮社、2016)

2017年2月10日 (金)

小沼丹の連作短篇集『黒と白の猫』

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小沼丹には大寺さんという人物を主人公にした一連の短篇集がある。これらは幾つかの随筆集に分散されて収録され、現在そのままの形で復刻されている。それが最近になってこの小説群が一冊にまとめられ、『黒と白の猫』として刊行された。

ちょうどバラードの『ヴァーミリオン・サンズ』やヘミングウェイの『ニック・アダムズ物語』のような体裁になったのだが、大寺さんものが連作短篇集として一冊にまとめられた意義はやはり大きいし、それにも増して、本書の刊行にあたって旧仮名遣いがそのまま採用されたのは、小沼丹の作品を愛好する読者にとって何よりの喜びである。

たとえば、『タロウ』の出だしはこんな具合である。

その頃、大寺さんは病気で臥てゐた。
三方を本で囲まれた部屋の窓際にベツドを置いて、毎日その上で過した。病人の所にはいろんな人が来て、いろんな話をして行く。大寺さんと同じ病気で大きな空洞があつたけれども、いまぢやこの通り、と云ふ人も何人かある。
——ほんとかな?
——ほんとですとも、尤も、と相手はちよつと考へ込む。尤も他の奴は大抵死んぢやつたけれども……。
それから、話が妙な具合に進展したのに気附いて、どうぞお大事に、と帰つて行くのである。

小沼丹の作品の淡い描写やとぼけた感じなどはゆったりした時間感覚と切り離せないのだが、それを醸し出しているのが旧仮名遣いであるような気がするのである。

小沼丹『黒と白の猫』(未知谷、2005)
黒と白の猫(『懐中時計』)
揺り椅子(『懐中時計』)
タロウ(『懐中時計』)
蝉の脱殻(『懐中時計』)
古い編上靴(『銀色の鈴』)
眼鏡(『藁屋根』)
銀色の鈴(『銀色の鈴』)
藁屋根(『藁屋根』)
沈丁花(『藁屋根』)
入院(『木菟燈籠』)
鳥打帽(『木菟燈籠』)
ゴムの木(『木菟燈籠』)

2017年1月 5日 (木)

バラード『コーラル D の雲の彫刻師』再読

Vermilionsands

J・G・バラードの『コーラル D の雲の彫刻師』は連作短篇集『ヴァーミリオン・サンズ』の冒頭を飾る一篇。彼が亡くなって「SF マガジン」誌が追悼特集を組んだときにも、真っ先に取り上げられたのがこの作品だった。

この短篇集はバラードの作品の中でもとりわけ人気が高い。それは、作品ごとの場面が統一されていることと、全篇を覆う退廃的な気分、そして音響彫刻、砂エイ、砂上ヨット、雲の彫刻など、近未来的で異国的な舞台装置のほか、朽ちていくものに抱く郷愁に似た感情のせいなのかもしれない。

この『コーラル D …』を原文で読んでみた。僕には知らない単語が多く、読了するのに多くの時間を要した。それでも、一つ一つの文章が即物的で乾いているうえに描写が具体的で、視覚的な想像力が喚起される。初期のバラード作品の好例だ。

バラードは1970 年代に入ると、暴力的な場面をしつこく描写しだした。僕はこの変化に驚くとともに、作風の変化に追随できなくなった。だが、今回『コーラル D …』をゆっくり読んで気づいたのだが、この作品にも後年に通じる異様で不気味な場面がすでにあったのだ。

物語の終わり近く、別荘を襲った竜巻により、雲の彫刻師ヴァン・アイクが電線に首を吊るされて死ぬ。彼の頭部を輪状になった電球が点滅する場面の気味の悪さ。70 年代以降の作風の変化も突然生じたわけではないということなのだろう。

J. G. Ballard : Vermilion Sands (1971)
The Cloud-Sculptors of Coral D (1967)
Prima Belladonna (1956)
The Screen Game (1962)
The Singing Statues (1962)
Cry Hope, Cry Fury! (1966)
Venus Smiles (1957)
Say Goodbye to the Wind (1970)
Studio 5, The Stars (1961)
The Thousand Dreams of Stellavista (1962)

2016年9月 7日 (水)

青山七恵『かけら』とアラン・シリトー『漁船の絵』

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青山七恵の短篇集『かけら』を読んだ。

アラン・シリトーの『漁船の絵』を再読していたとき、数年前の新聞記事で、川端康成文学賞に『かけら』が決まったとき、青山さんが最も好きな短篇として『漁船の絵』をあげていたことを思い出したからなのだ。彼女はこの短篇を「ある夫婦のすれ違いが、さらっと書かれているのにもかかわらず、訴えてくるものがいっぱいある」と述べていた。

いちど別れ、何年も経ってから再び夫のもとを訪れる妻とのやりとりに、もはや修復できないところまできた二人の関係を知る。こんな会話。

「あなたって、興奮すること、決してなかったわね、ハリー」
「うん」
とおれは正直に答えた。
「まあ、なかったな」
「興奮すればよかったのに」
と、あいつは変にぼんやりした調子で、
「そしたら、あたしたち、あんなことにならなくて済んだのに」
「もう遅すぎるよ」
と、激しい口調でいってから、
「喧嘩やごたごたは嫌いだったからな。平和がおれの主義さ」
(丸谷才一訳)

『かけら』は、父親と二人でさくらんぼ狩りツアーに出かける女子大生の話。家族全員で出かける予定が、なぜか二人で行くことになった居心地の悪さが描かれている。このへんのやりとりも面白い。

「お父さんて、ほんとに話しがいがないね」
は、は、と乾いた声で父は笑った。
「なんか、ただ水に石を落っことしてるみたいなんだよね。お父さんと話してると」
「そうか」

『かけら』と『漁船の絵』はまったく別の物語だが、どちらも淡々とした調子で綴られ、べたべたしたところがない。それでいて、読み終わってから、解けなかった試験問題のようなものが心に残る。

青山七恵『かけら』(新潮社、2009)
かけら
欅の部屋
山猫

Alan Sillitoe : The Loneliness of the Long-Distance Runner (1959)
The Loneliness of the Long-Distance Runner
Uncle Ernest
Mr. Raynor the School-Teacher
The Fishing-Boat Picture
Noah's Ark
On Saturday Afternoon
The Match
The Disgrace of Jim Scarfedale
The Decline and Fall of Frankie Buller

Thelonelinessofthelongdistancerunne

2016年8月28日 (日)

カーソン・マッカラーズの小説

 

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カーソン・マッカラーズの小説を初めて読んだ。マッカラーズは名前も知らない作家だったけれど、雑誌『MONKEY Vol.7 古典復活』を紹介したブログ中の、柴田元幸と村上春樹の対談記事を読んで興味が湧いたのだった。

マッカラーズの小説は、この雑誌が出た時点で、すべて絶版となっていて、ちょうど対談時に村上春樹が翻訳作業を進めていた『結婚式のメンバー』が今ようやく新潮文庫から刊行されたばかりなのだった。

ということで、マッカラーズの小説は現在すべて高値で取り引きされ、入手がむずかしいのだが、市の図書館では十分な冊数を所蔵している。僕の借りた短篇集『悲しき酒場の唄』など、とても状態がよく、いかにも借り手が少なかったことを示している。市場では稀覯本、しかし図書館では借り手が少ないという矛盾した状況が、マッカラーズという作家の不思議な立場を暗示しているようだ。

『悲しき酒場の唄』はアメリカ南部を舞台にしたものだが、描かれた世界は複雑で奇妙で異常で、また暴力的でもある。秩序や合理性が通用しない世界といってもいいのだが、訳者の西田実氏は巻末で、これを「グロテスク」と形容するのが手短であると解説している。

『騎手』は六篇の短篇で構成されているが、こちらは『悲しき酒場の唄』に比べればはるかに読みやすい。それぞれの世界が凝縮されて読者に提示される。

カーソン・マッカラーズ 西田実訳『悲しき酒場の唄』(白水社、1990)
悲しき酒場の唄
騎手
 天才少女
 騎手
 マダム・ジレンスキーとフィンランドの王様
 旅人
 家庭の事情
 木 石 雲

2016年8月25日 (木)

山川方夫のミステリ

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山川方夫という作家がいたのだそうだ。発表した作品が次々と芥川賞や直木賞の候補になりながら結局は受賞に至らず、34 歳という若さで急死したという。1930 年生まれというから第三の新人たちよりも若いのだが、名前や作品が知られていないのはこうした事情によるのだろう。

山川方夫は小説のほかにミステリ、戯曲、放送台本、エッセイ、映画評論も手がけていたという。そのなかのミステリのみをまとめ、創元推理文庫から刊行されたのが本書。

『親しい友人たち』は雑誌「ヒッチコック・マガジン」に発表された短篇群。いずれも十頁程度のごく短いもので、どれもが苦い読後感をたたえている。巻末の解説で法月綸太郎氏が指摘しているように、ロアルド・ダールの作風を思い起こさせる。

『トコという男』は「エラリー・クイーンズ・ミステリ・マガジン」に連載された、これもまたごく短い短篇集。「僕」という人物とその友人「トコ」との会話で進行する。この「トコ」が大変な議論好きで、多くの場合「僕」はこてんぱんに論破されるか、煙に巻かれてしまう。「トコ」は「とことん」の「トコ」であるとのこと。なるほど。

人を見れば議論をふっかけないではいられない 1960 年代の空気を伝えていると同時に、そんな「トコ」が山川方夫の分身であるようにも感じる。

山川方夫ミステリ傑作選 高崎俊夫編『親しい友人たち』(創元推理文庫、2015)
親しい友人たち
トコという男 ほか

2016年7月28日 (木)

レイ・ブラッドベリ『こびと』

 

Theoctobercontry

レイ・ブラッドベリの初期の短篇集『10 月はたそがれの国』。僕はこの中の冒頭に置かれている一篇『こびと』が忘れられない。風のない暑い夏の夜の見世物小屋の情景、センチメンタルな話の展開、軽快な饒舌。

僕はこの話を、なぜか原書で読んでみたくなった。上に記したブラッドベリ独特の描写は、原文ではどのように表現されているのだろうか。相当の苦労が予想されるが、短篇一篇だったらどうにか読み下せるかもしれない。

買い求めたのは 1996 年の復刻版。ジョー・マグナイニによる挿絵もそのまま収録されている。

読み終えてふと思い出したのは、ブリュッヘンやビルスマやクイケンらによる古楽器の演奏。曲を演奏するに、作曲された当時の楽器を用い、作曲者直筆の楽譜を読み込むという彼らの姿勢。この原典に当たるという感覚に、大げさに言えば、ほんのちょっと触れた思いがする。

The Dwarf
Ray Bradbury : The October Country (Ballantine Books, 1996)
Illustrated by Joseph Mugnaini

Thedwarf

2016年4月 6日 (水)

K・マンスフィールド『ドイツの田舎宿で』

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キャサリン・マンスフィールドの最初の単行本『ドイツの田舎宿で』In a German Penshin が図書館にあったので、読んでみた。

マンスフィールドを初めて読むには、新潮文庫やちくま文庫から出ている短篇集のほうが適切なのかもしれない。だが、これを手に取ったのは、彼女の処女作がそのままの形で翻訳されている事実、それに音楽についても言えるとこだが、処女作には、後年の作品には求めることのできない一度きりの魅力を感じることがしばしばあるという理由から。

『ドイツの田舎宿で』にはごく短い作品が 13 篇収められている。短いのは 7 頁、長いものでも 23 頁。ありふれた日常生活が淡々と語られる。

この処女作は出版社が倒産して絶版になったあと、作者自身が再版を拒否し続け、それが実現したのは彼女の死後三年経ったあとのことだという。再版拒否の理由のひとつが、チェーホフの模倣とみなされることを嫌ったためだったとされている。この中の『疲れきったねえや』を読むと、誰だってチェーホフの短篇『ねむい』を思い起こすだろう。模倣という以上に、ほとんど盗作に近いように感じる。

『ブレッヘンマッヒャー夫人と村の結婚式』は、田舎の結婚式に出席した夫婦の一日を描いたもの。家に帰った奥さんが昔の自分たちの結婚式を思い出す場面のやるせなさ。ここでの描写がのちに発展していくであろう彼女の作風の元になっているのだろうか。

K・マンスフィールド著 内田深翠訳『ドイツの田舎宿で』(文化書房博文社、1996)

2016年1月 5日 (火)

ジュリアン・バーンズ『終りの感覚』

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ジュリアン・バーンズの小説『終りの感覚』を読んだ。

バーンズという作家のことは何一つ知らなかった。図書館で英米文学の棚を眺めていて『終りの感覚』という書名に惹かれ、手に取ったまでのことだった。

カバーの見返しの部分にこの小説のあらすじが記されている。

穏やかな引退生活を送る男のもとに、見知らぬ弁護士から手紙が届く。日記と 500 ポンドをあなたに遺した女性がいると。記憶をたどるうち、その人が学生時代の恋人ベロニカの母親だったことを思い出す。託されたのは、高校時代の親友で、ケンブリッジ在学中に自殺したエイドリアンの日記。別れたあとベロニカは、彼の恋人となっていた。だがなぜ、その日記が母親のところに? -------- ウィットあふれる優美な文章。衝撃的エンディング。記憶と時間をめぐるサスペンスフルな中篇小説。2011 年ブッカー賞受賞作。

誰からも一目置かれる優秀な学生だった親友エイドリアンの早すぎる死、そこそこ普通の存在で、引退生活を迎えた男。

彼は離婚した元妻に会い、さらにはエイドリアンの妻だったベロニカの電子メールのアドレスを知り、弁護士からの手紙の真相を執拗に追い求める。ついに浮かび上がってきた衝撃的な事実。さらに、最後の最後に訪れるどんでん返し。

彼が何か取り返しのつかない誤りを犯したのでも、手ひどい仕打ちを与えたのでもない。ただ鈍すぎたのだ。ベロニカの言葉「あなたはほんとにわかってない。昔もそうだったし、これからもきっとそう」そのままだったのだろう。

カバー裏の川本三郎の評が重く残る。

「音信不通」だった過去はあくまでも苦く重い。(中略)思い出すとは悔恨に向き合うことなのだろう。

ジュリアン・バーンズ 土屋政雄訳『終りの感覚』(新潮クレスト・ブックス、2012)

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