小説

2018年5月11日 (金)

フラナリー・オコナーを初めて読んだ

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フラナリー・オコナーの小説『善人はなかなかいない』を初めて読んだ。これは、1998 年に筑摩書房から刊行されたもので、二冊の短篇集から適宜選択、収録されたものとのこと。

以前、カーソン・マッカラーズを読んだとき、彼女と対で語られていたのがこの作家であり、このとき初めてフラナリー・オコナーの名前を知ったのだった。彼女たちはどちらも米国南部の生まれで、ここを舞台とする作品を書き、同じ時代を生き、若くして亡くなった。

そういうわけで、作品にも似かよったところがあるのだが、オコナーのほうがはっきりとした強い印象を与える。それは一つには、登場人物たちが容赦なく殺害されることで物語が終わるということにあるのかもしれない。中でも、「善人はなかなかいない」の結末は衝撃的だ。

しかしながら、この先、どちらの作家を読み続けたいかと問われたら、僕はマッカラーズと答えるしかない。オコナーの作品は、推理小説が好きな読者がカトリーヌ・アルレーの『わらの女』に遭遇したときに感じる間の悪さがある。

人物が殺害されて完結する物語は、完全犯罪が成立して終わる推理小説に、掟破りという点で、似てなくもないからだ。

フラナリー・オコナー著、横山貞子訳『善人はなかなかいない』(筑摩書房、1998 年)

善人はなかなかいない
強制追放者
森の景色
家族のやすらぎ
よみがえりの日

2018年3月23日 (金)

丸谷才一『たった一人の反乱』

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僕は丸谷才一の随筆が大好きなのだが、小説となるとこれまで『笹まくら』一冊を読んだに過ぎない。彼の小説は構えが大きく、また分量も結構あるので、気後れしてしまうのだ。

だが、このまま彼の小説を知らずに過ごすのもどうかと思い、もう一冊、『たった一人の反乱』を読んでみることにした。

『たった一人の反乱』は昭和 47 年、それまでの学生運動が急速に力を失っていく時代に発表された。カバーに作者の言葉が載っている。

通産省から天下りした重役も 大学教授の娘も 物騒な写真が専門の 若いカメラマンも 主人思ひの女中も そして 刑務所がへりの老女も 大勢の登場人物が みんな てんでんばらばらに ``たつた一人の反乱''をおこなふ。
わたしは 大揺れにゆれてゐる現代日本を 生きのいいまま 捉えようとして こんな物語を夢見てしまつた。
そして この長篇小説 それ自体もまた 今の日本の小説の書き方に 決然と 逆らつてゐるといふ点で 一人の小説家の``たつた一人の反乱''にほかならない。

天下りした官僚と、その彼よりもずっと歳の若いモデルとの結婚生活という設定は珍しいが、さらに、その若い妻の祖母に当たる老女が実は刑務所帰りで、彼ら新婚の家庭に転がり込むということになると、もはや珍しさを通り越して奇異に映る。

しかしながら、各紙・誌はこの小説に「たいへん愉快な小説」「知的哄笑の精神」「市民社会への傾聴に価する作者の逆説的考察」「本年度、日本文学最高の収穫」と賛辞をもって応え、気になる設定についても「読者は作者の仕掛けに笑わせられながら、この長篇を一気に読みあげるだろう」と意に介さない。

丸谷才一『たった一人の反乱』(講談社、昭和 47 年)

2018年2月 5日 (月)

小山清『小さな町』

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小山清の作品は現在、筑摩書房の全集のほか、単行本や文庫などで読むことができる。

『小さな町』は、みすず書房《大人の本棚》の一冊として刊行されたもの。初出は昭和 29 年、筑摩書房とのこと。

作者自身が暮らした下谷竜泉寺町と夕張炭鉱を舞台にした短篇集で、どの作品も語り口がとても静か。それに、登場人物に注ぐ眼差しが大変に優しく、ほとんど童話を読んでいるかのようだ。

こういう小説を生み出した作者自身に、島崎藤村の世話で日本ペンクラブの初代書記になったが、公金を使い込み、八ヶ月間服役するという前科があったという。本短篇集の中の〈雪の宿〉でも述べられているように、自身には生活破綻的な行動があったようだ。

小山清『小さな町』(みすず書房、2006)
小さな町
をぢさんの話
西郷さん
離合
彼女
よきサマリア人
道連れ
雪の宿
与五さんと太郎さん
夕張の春
あとがき
解説 堀江敏幸

2017年8月30日 (水)

ロバート・バー『ウジェーヌ・ヴァルモンの勝利』

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しばらく前の新聞で、仏文学者の鹿島茂さんが書評を集めたサイト ALL REVIEWS を開設したことを知った。これに作家の逢坂剛さんがロバート・バーの『ウジェーヌ・ヴァルモンの勝利』を取り上げた評が掲載されている。

本書は、〈我輩〉という一人称で書かれており、往年の保篠龍緒訳のアルセーヌ・ルパンものを思わせる、軽妙な語り口が心地よい。(中略)提示される謎と解決は、どれも古さを感じさせず、総じてルパンものより合理的である。(中略)昔ながらの、読書の楽しみを思い出させてくれる、佳味あふれる作品集である。

『ウジェーヌ・ヴァルモンの勝利』は八篇からなる短篇集。書評のとおり痛快で洒落ていて、不思議と古さが感じられない。

八篇の中では「うっかり屋協同組合」The Absent-Minded Coterie がもっともよく知られ、エラリー・クイーンや江戸川乱歩が激賞し、数々のアンソロジーに収録されているとのこと。創元推理文庫の乱歩編『世界短編傑作集』でも「放心家組合」という題で取り上げられていて、前にいちど読んだはずなのだが、すっかり忘れていた。また、夏目漱石の『我輩は猫である』の中でも、雑誌で読んだ話として登場するというのだが、これについても記憶がない。

今の感覚では、全八篇のうち「うっかり屋協同組合」だけが突出した出来栄えという感じはしない。「銀のスプーンの手がかり」「チゼルリッグ卿の失われた遺産」などもすっきりまとまっている。

ロバート・バー、平山雄一訳『ウジェーヌ・ヴァルモンの勝利』(国書刊行会、2010)
ダイヤモンドのネックレスの謎
シャム双生児の爆弾魔
銀のスプーンの手がかり
チゼルリッグ卿の失われた遺産
うっかり屋協同組合
幽霊の足音
ワイオミング・エドの釈放
レディ・アリシアのエメラルド

2017年8月 8日 (火)

カーソン・マッカラーズ『心は孤独な狩人』

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カーソン・マッカラーズの処女作『心は孤独な狩人』を読んだ。

マッカラーズの小説は村上春樹の新訳『結婚式のメンバー』を除けば現在すべて絶版になっているが、『心は孤独な狩人』だけはなぜか電子書籍版が出ている。訳者は河野一郎となっているので、新潮文庫と同じ内容のようだ。

物語は少女ミックを中心に、同性愛者と思しき二人の聾唖者、カフェの主人、黒人医師、革命を夢想する男などによって展開される。ここでのミックは作者マッカラーズの分身と考えられる。

物語について訳者の河野一郎は、マッカラーズが出版社に書き送り創作奨学金を得たというこの作品の青写真に当たる資料を引用して、次のように解説している。

五人の孤独な魂の渇きと挫折が、均衡のとれた綿密なプランに従って「対位法的に組み立てられて」いる。(中略)「遁走曲(フーガ)におけるそれぞれの声部のように、主な登場人物は一人ひとりが完全なものであるが−−−−他の人物と対比され、編み合わされて、新しい豊かさを持つ」ように配置されているのだ。

物語の構造を音楽に喩えているのは、マッカラーズ自身がコンサート・ピアニストになる夢を持っていたことと切り離せないが、他のどのような解説にも増してこの小説の特徴と魅力を捉えていると思う。

カーソン・マッカラーズ/河野一郎訳『心は孤独な狩人』(グーテンベルク 21、2016)

2017年3月19日 (日)

堀江敏幸『その姿の消し方』

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留学生時代、古物市で見つけた 1938 年の消印のある古い絵はがき。廃屋としか見えない建物と朽ち果てた四輪馬車の写真の裏には、流麗な筆記体による一篇の詩が記されていた。やがて、一枚また一枚と、この会計検査官にして「詩人」であった人物の絵はがきが手元に舞い込んでくる――。

これが小説の発行元の紹介文。古書店で求めた本に書き込みがあったなどというのはよくある話にしても、古物市に絵葉書、それも宛名や通信文まで書き込まれたものまで売りに出されているということがあるのだろうか。

でも、とりあえず蚤の市はそういうところなのだとでもしておかなければ、読み進めることができない。これは、河岸に繋留された船に住むことになった話『河岸忘日抄』を読み始めたときのどうにも地に足の着かない感覚に似ている。

こうした浮遊感が最後まで消えずに小説は終わる。

現実味の乏しい設定をしつらえ、登場人物に動きを与える。それでいて、語り口はあくまで静か。実験臭など微塵も感じさせない。やはり、最前線の小説家だという気がする。

堀江敏幸『その姿の消し方』(新潮社、2016)

2017年2月10日 (金)

小沼丹の連作短篇集『黒と白の猫』

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小沼丹には大寺さんという人物を主人公にした一連の短篇集がある。これらは幾つかの随筆集に分散されて収録され、現在そのままの形で復刻されている。それが最近になってこの小説群が一冊にまとめられ、『黒と白の猫』として刊行された。

ちょうどバラードの『ヴァーミリオン・サンズ』やヘミングウェイの『ニック・アダムズ物語』のような体裁になったのだが、大寺さんものが連作短篇集として一冊にまとめられた意義はやはり大きいし、それにも増して、本書の刊行にあたって旧仮名遣いがそのまま採用されたのは、小沼丹の作品を愛好する読者にとって何よりの喜びである。

たとえば、『タロウ』の出だしはこんな具合である。

その頃、大寺さんは病気で臥てゐた。
三方を本で囲まれた部屋の窓際にベツドを置いて、毎日その上で過した。病人の所にはいろんな人が来て、いろんな話をして行く。大寺さんと同じ病気で大きな空洞があつたけれども、いまぢやこの通り、と云ふ人も何人かある。
——ほんとかな?
——ほんとですとも、尤も、と相手はちよつと考へ込む。尤も他の奴は大抵死んぢやつたけれども……。
それから、話が妙な具合に進展したのに気附いて、どうぞお大事に、と帰つて行くのである。

小沼丹の作品の淡い描写やとぼけた感じなどはゆったりした時間感覚と切り離せないのだが、それを醸し出しているのが旧仮名遣いであるような気がするのである。

小沼丹『黒と白の猫』(未知谷、2005)
黒と白の猫(『懐中時計』)
揺り椅子(『懐中時計』)
タロウ(『懐中時計』)
蝉の脱殻(『懐中時計』)
古い編上靴(『銀色の鈴』)
眼鏡(『藁屋根』)
銀色の鈴(『銀色の鈴』)
藁屋根(『藁屋根』)
沈丁花(『藁屋根』)
入院(『木菟燈籠』)
鳥打帽(『木菟燈籠』)
ゴムの木(『木菟燈籠』)

2017年1月 5日 (木)

バラード『コーラル D の雲の彫刻師』再読

Vermilionsands

J・G・バラードの『コーラル D の雲の彫刻師』は連作短篇集『ヴァーミリオン・サンズ』の冒頭を飾る一篇。彼が亡くなって「SF マガジン」誌が追悼特集を組んだときにも、真っ先に取り上げられたのがこの作品だった。

この短篇集はバラードの作品の中でもとりわけ人気が高い。それは、作品ごとの場面が統一されていることと、全篇を覆う退廃的な気分、そして音響彫刻、砂エイ、砂上ヨット、雲の彫刻など、近未来的で異国的な舞台装置のほか、朽ちていくものに抱く郷愁に似た感情のせいなのかもしれない。

この『コーラル D …』を原文で読んでみた。僕には知らない単語が多く、読了するのに多くの時間を要した。それでも、一つ一つの文章が即物的で乾いているうえに描写が具体的で、視覚的な想像力が喚起される。初期のバラード作品の好例だ。

バラードは1970 年代に入ると、暴力的な場面をしつこく描写しだした。僕はこの変化に驚くとともに、作風の変化に追随できなくなった。だが、今回『コーラル D …』をゆっくり読んで気づいたのだが、この作品にも後年に通じる異様で不気味な場面がすでにあったのだ。

物語の終わり近く、別荘を襲った竜巻により、雲の彫刻師ヴァン・アイクが電線に首を吊るされて死ぬ。彼の頭部を輪状になった電球が点滅する場面の気味の悪さ。70 年代以降の作風の変化も突然生じたわけではないということなのだろう。

J. G. Ballard : Vermilion Sands (1971)
The Cloud-Sculptors of Coral D (1967)
Prima Belladonna (1956)
The Screen Game (1962)
The Singing Statues (1962)
Cry Hope, Cry Fury! (1966)
Venus Smiles (1957)
Say Goodbye to the Wind (1970)
Studio 5, The Stars (1961)
The Thousand Dreams of Stellavista (1962)

2016年9月 7日 (水)

青山七恵『かけら』とアラン・シリトー『漁船の絵』

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青山七恵の短篇集『かけら』を読んだ。

アラン・シリトーの『漁船の絵』を再読していたとき、数年前の新聞記事で、川端康成文学賞に『かけら』が決まったとき、青山さんが最も好きな短篇として『漁船の絵』をあげていたことを思い出したからなのだ。彼女はこの短篇を「ある夫婦のすれ違いが、さらっと書かれているのにもかかわらず、訴えてくるものがいっぱいある」と述べていた。

いちど別れ、何年も経ってから再び夫のもとを訪れる妻とのやりとりに、もはや修復できないところまできた二人の関係を知る。こんな会話。

「あなたって、興奮すること、決してなかったわね、ハリー」
「うん」
とおれは正直に答えた。
「まあ、なかったな」
「興奮すればよかったのに」
と、あいつは変にぼんやりした調子で、
「そしたら、あたしたち、あんなことにならなくて済んだのに」
「もう遅すぎるよ」
と、激しい口調でいってから、
「喧嘩やごたごたは嫌いだったからな。平和がおれの主義さ」
(丸谷才一訳)

『かけら』は、父親と二人でさくらんぼ狩りツアーに出かける女子大生の話。家族全員で出かける予定が、なぜか二人で行くことになった居心地の悪さが描かれている。このへんのやりとりも面白い。

「お父さんて、ほんとに話しがいがないね」
は、は、と乾いた声で父は笑った。
「なんか、ただ水に石を落っことしてるみたいなんだよね。お父さんと話してると」
「そうか」

『かけら』と『漁船の絵』はまったく別の物語だが、どちらも淡々とした調子で綴られ、べたべたしたところがない。それでいて、読み終わってから、解けなかった試験問題のようなものが心に残る。

青山七恵『かけら』(新潮社、2009)
かけら
欅の部屋
山猫

Alan Sillitoe : The Loneliness of the Long-Distance Runner (1959)
The Loneliness of the Long-Distance Runner
Uncle Ernest
Mr. Raynor the School-Teacher
The Fishing-Boat Picture
Noah's Ark
On Saturday Afternoon
The Match
The Disgrace of Jim Scarfedale
The Decline and Fall of Frankie Buller

Thelonelinessofthelongdistancerunne

2016年8月28日 (日)

カーソン・マッカラーズの小説

 

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カーソン・マッカラーズの小説を初めて読んだ。マッカラーズは名前も知らない作家だったけれど、雑誌『MONKEY Vol.7 古典復活』を紹介したブログ中の、柴田元幸と村上春樹の対談記事を読んで興味が湧いたのだった。

マッカラーズの小説は、この雑誌が出た時点で、すべて絶版となっていて、ちょうど対談時に村上春樹が翻訳作業を進めていた『結婚式のメンバー』が今ようやく新潮文庫から刊行されたばかりなのだった。

ということで、マッカラーズの小説は現在すべて高値で取り引きされ、入手がむずかしいのだが、市の図書館では十分な冊数を所蔵している。僕の借りた短篇集『悲しき酒場の唄』など、とても状態がよく、いかにも借り手が少なかったことを示している。市場では稀覯本、しかし図書館では借り手が少ないという矛盾した状況が、マッカラーズという作家の不思議な立場を暗示しているようだ。

『悲しき酒場の唄』はアメリカ南部を舞台にしたものだが、描かれた世界は複雑で奇妙で異常で、また暴力的でもある。秩序や合理性が通用しない世界といってもいいのだが、訳者の西田実氏は巻末で、これを「グロテスク」と形容するのが手短であると解説している。

『騎手』は六篇の短篇で構成されているが、こちらは『悲しき酒場の唄』に比べればはるかに読みやすい。それぞれの世界が凝縮されて読者に提示される。

カーソン・マッカラーズ 西田実訳『悲しき酒場の唄』(白水社、1990)
悲しき酒場の唄
騎手
 天才少女
 騎手
 マダム・ジレンスキーとフィンランドの王様
 旅人
 家庭の事情
 木 石 雲

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