カテゴリー「書籍・雑誌」の46件の記事

J・G・バラードの言う内宇宙とは

今年四月に亡くなった J・G・バラード。彼の名前と対になって記憶されているのが「内宇宙」inner space という言葉。この言葉は当然のごとく「外宇宙」outer space と対比されるものなのだが、外宇宙が大気圏外空間だとすると、内宇宙とはいったいどこを指すのだろうか。バラードが言う「SF が描くべきは内宇宙への旅なのだ」とは何なのか。

『SF マガジン』11 月号の J・G・バラード追悼特集の記事、牧眞司『やさしいバラード』はこの疑問に対する鮮やかな答えを提示している。

バラードはジュディス・メリルに宛てた手紙の中で「内宇宙」を「現実の外世界と精神の内世界が出会い、融けあう領域」と定義している。

というわけで、「内宇宙」とは単なる精神世界ではなく、人間の内側にあるものでもない。

また、バラードは次のようにも言っている。

真の SF 小説の第一号は ---- 誰も書かなければ私が書こうと思うのだが ---- 記憶を失った男が浜辺に横たわり、錆びた自転車の車輪を見つめ、その車輪と自分との関係のなかにある絶対的本質をつかもうとする、そんな物語になるはずだ。

牧眞司は、これが先に引用した「内宇宙」の定義ときれいに重なる、と述べている。

自転車の車輪    = 外世界
浜辺に横たわる男  = 内世界
車輪と自分との関係 = 融けあう領域
絶対的本質     = 内宇宙

というわけだが、ここで重要なのが「記憶を失った」という前提であると言う。

「記憶を失う」とは、予断を持たないということだ。自分がだれか、ここがどこか、車輪とはどういうものか、そうした知識(先入観)を振りすて、虚心に眺めて考える。新しい波(ニュー・ウェイヴ)運動のとき、合い言葉のごとく唱えられた「スペキュレイション(思弁)」も、けっきょくそれを目ざしていたのだ。

バラードの「内宇宙」をこれほど明確に述べたものは僕には初めてだった。

それでも、浜辺に横たわって車輪を見つめ、その中にある本質などという物語がはたして SF なのかという意見もあるかもしれない。しかし、バラードはそれが真の SF だと言っているのだ。彼の作品を読むためには、まず何よりも虚心にということなのだろう。

それはちょうど、ポール・ブレイやジョン・チカイらのニュー・ジャズ、アントン・ヴェーベルンらの新ヴィーン楽派、さらにはキング・クリムゾンらのプログレッシヴ・ロックもそうかもしれないが、これらの音楽に接するとき、自分の中にある枠組みをいったん解き放たなければ何も聴こえてこない、というのとたぶん同じなのだろう。

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堀江俊幸『子午線を求めて』

Photo 堀江俊幸の『子午線を求めて』を読んでみました。『子午線を求めて』は 2000 年に思潮社より刊行され、2008 年になって講談社文庫として再出版されました。

彼のデビュー作『郊外へ』を継承する、フランス文学を巡る紀行文、もしくは随筆集といった体裁になっています。

本書の題名となった『子午線を求めて』は、現在のグリニッジ子午線とは別に、これより前に存在していたパリ子午線を訪ねる物語。

18 世紀に子午線を完成させたフランスの天文学者、フランソワ・アラゴーを蘇らせるために、オランダの芸術家、ヤン・ディベッツは、大がかりな建造物やごてごてした銅像の代わりに、誰の目にもつかないけれど、常にそこにある架空の線分上にその偉業を再現させるという、意表を突いた計画を実行した。それは、アラゴーの名と南北の記号が刻まれた直径 12 センチの銅盤 135 枚を不可視の子午線に沿って埋め込んでいくというもの。この作業は 1994 年に完了した。

堀江俊幸はこの行為を次のように述べています。

敷設された円盤の列は、グリニッジに奪われた栄誉を取り戻すためばかりではなく、ただでさえ歴史のひしめく重々しい都市空間にたいする軽やかな挑戦でもあり、世紀末における記念建造物の姿にひとつの方向性を示す、穏やかだが画期的な試みであった。

そして彼は、見逃してしまいそうな小さな銅盤が作り出すこの架空の糸の上を、自分の脚で踏破する旅に出るのだ。

どうです、過去の天文学者を讃える子午線の再現と、ここを旅する日本人留学生の行動は。かの地でなければ実現できない痛快さと勇気。

クラフト・エヴィング商會による文庫版の洒落た装幀は、この銅盤による子午線を表しています。

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『SF マガジン』J・G・バラードの追悼特集

Sfmagazine 早川書房の『SF マガジン』11月号は、この 4 月に亡くなった J・G・バラードの追悼特集になっている。内容は、未発表一篇を含む中短篇四篇、追悼エッセイ、著作リストなど。

四篇のうちではまず『コーラル D の雲の彫刻師』。短篇集『ヴァーミリオン・サンズ』の冒頭を飾る作品だ。

題名に現れる「コーラル D」「雲の彫刻師」、続いて本文の「ヴァーミリオン・サンズ」「ラグーン・ウェスト」という地名、さらには「珊瑚塔」「砂礁脈」「音響彫刻」「砂鰾(すなえい)」などの言葉が近未来のリゾート地を舞台としたこの作品のイメージを形作る。ついで、片脚を骨折し、二度と空を飛ぶことのできない退役パイロット、醜いせむしの小男、美しいが気の狂った女などの登場人物が退廃的で終末的な雰囲気をただよわせながら、物語を悲劇的な結末に導く。

やはり、この作品はバラードの代表作であり、追悼特集に再掲されるにふさわしいものであった。

そのほかには、著作リストが貴重な資料であると同時に、ここに並列されたバラード自身のコメントが興味深い。ここで、彼は『ヴァーミリオン・サンズ』についてこう語っている。

ヴァーミリオン・サンズはどこにあるのだろう? おそらくはパーム・スプリングズとホアン・レス・ビンズとイパネマ・ビーチのあいだのどこか。ヴァーミリオン・サンズははっきりとビーチ・リゾートだが、言うまでもなく海はない。ビーチはどこまでも、あらゆる方向に伸び、隣りあったリゾート地のビーチ、住人たちの昼下がりの精神と混じりあう。ヴァーミリオン・サンズに戻りたい気持ちはますます強くなっている。今度はもう戻ってこないつもりだ。

彼は今、自ら創造したリゾート地で静かな生活を送り、言葉どおり、もう僕らの前に再びその姿を見せることはない。

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串田孫一の小説集

Photo 串田孫一はいろいろな仕事をした人だったけれど、やはり一番知られているのは随筆家としての姿だった。僕は今でも時々彼の随想集を取り出して読むことが多い。

1998 年に筑摩書房から出版された全八巻の『串田孫一集』はおもにこれらの随想から構成されているのは当然のことなのだが、驚くことに第一巻は小説集になっている。彼が小説を発表していたことは、この全集が出るまで知らなかった。

収められているのは 1937 年から 1950 年まで、つまり戦前から終戦直後までに発表された短中篇。さらに、巻末の解説によれば、彼にはこれらのほかに、1979 年に彌生書房から刊行された『流れる時』という長篇小説があるとのこと。僕は、1979 年にはすでに串田孫一を読んでいたのだけれど、この小説もまた知らなかった。

ところで、この全集の小説集なのだが、いずれも私小説風のもので、風俗的にも戦前という時代を強く感じる。現在の視点からすれば、さすがに古いという印象を拭えないのが残念なところ。

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J・G・バラード『楽園への疾走』

Photo 僕はバラードの初期の作品群が大好きなのだけど、1970 年代以降のものにはついていけなかった。でも、今年の四月に彼が亡くなって、もうあのような小説を読むことができないのかと思うと、最近の作品も読んでみようかなという気になった。

『楽園への疾走』は 1995 年の作品で、東京創元社から一度単行本が出て、今年になって文庫化された。創元推理文庫(現在は創元 SF 文庫)では 12 冊目のもの。

環境保護運動から南海の島に居すわることになった運動家たちの妄想と狂気の世界。

たしかに初期のものとは作風が一変している。ただ、『結晶世界』など一連の作品では破滅に向かう世界を静かに魅惑的に描いていたのが、『楽園への疾走』では物語がもっと視覚化されると同時に、周囲のひりひりするような空気までも感じられるような臨場感を伴っている。

J・G・バラード『楽園への疾走』(創元 SF 文庫、2009)

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中島敦『山月記』

Photo 急に中島敦の『山月記』を読んでみたいと思った。

『山月記』は高校の現代国語の教科書に取り上げられていた。どんな授業だったのかはもう思い出せないけれど、あの堅く締まった文体はなぜか懐かしく感じられる。

新潮文庫の『山月記』は昭和 44 年に発行され、平成 15 年に改版された。このときに大きな活字で組み直されたものと思われるが、それでもわずか 12 頁の分量である。

官を退き詩業に専念したのだが、認められることなく、ついには発狂して虎に姿を変えた男の哀れ。

解説によれば、この変身譚は中国の古典に素材を求めたもので、また、中島敦自らがカフカらを愛読していたことによる所産とされている。

この文庫にはほかに数篇収められているが、これらのうち、『山月記』に次いで短い『名人伝』がよかった。

段落が長く、注が多いし、ルビもたくさん振られ、もっともこれがないと読めないのだが、不思議と読みづらくはなかったというのが意外だった。

中島敦『李陵・山月記』(新潮文庫、昭和 44 年)
山月記
名人伝
弟子
李陵

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清水俊彦のフリー・ジャズ論

Photo 先日、ジャズ喫茶に入り、置いてあった雑誌『ジャズ批評 150 号』を手に取ってみたら、これが創刊 40 年の特集号になっていた。これには、油井正一、植草甚一、清水俊彦ら各氏による過去の記事が再録されていた。

僕の他にはお客さんがいない真夏のジャズ喫茶にはボサ・ノヴァが流れていた。そんな中で、ビールを飲みながら、『ニューヨーク・アート・クワルテットについて』と題された清水さんの記事を読んでみた。内容は、彼らの最初のレコード『ニュー・ヨーク・アート・クァルテット』(ESP、1964)の国内盤の解説と重複するところが多い。

ニュー・ヨーク・アート・クァルテットはジョン・チカイがラズウェル・ラッドらと共に結成した団体で、わずか二枚の録音を残して、二年足らずのうちに解散した。フリー・ジャズを、そして彼らの高度に知的な音楽を言葉で表現することは困難な仕事に違いないのだが、清水さんの文章にかかると、なるほどこういうことだったのかと納得するところが多い。たとえば、

グループのアプローチは主として対位法的であり、彼らは豊かでたえず変化するメロディックでリズミックなテクスチュアを用意しながら、対位法の織りなすラインによって、音楽を秩序立った、しかも強烈なものにしようとしている。

など、詩的で硬質な文章は、僕らが彼らの演奏を耳にして感じるものを明確に表現している。

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小川洋子『海』

Photo 列車で移動中のときには文庫本の短編集を読むことが多いです。それも、なるべく薄いものを。小川洋子さんの『海』も、巻末のインタヴューと解説を併せて 184 ページでした。

表紙に書かれた紹介文は、

恋人の家を訪れた青年が、海からの風が吹いて初めて鳴る〈鳴鱗琴(めいりんきん)〉について、一晩彼女の弟と語り合う表題作、言葉を失った少女と孤独なドアマンの交流を綴る「ひよこトラック」、思い出に題名をつけるという老人と観光ガイドの少年の話「ガイド」など、静謐で妖しくちょっと奇妙な七編。「今は失われてしまった何か」をずっと見続ける小川洋子の真髄。著者インタビューを併録。

今は失われてしまった何か・・・。たしかにそうですね、小川洋子さんの小説は。

それから、静謐という表現。この言葉どおりの作風を感じさせる小説家たちの中で、僕はいつも小川洋子さんの作品から透明でひんやりしたものも感じます。つまり、表現に雑味がないってことなんだろうなあ。ここでは『海』。『ひよこトラック』もそうかもしれない。

僕は小川洋子さんの静かで透明な作風が大好きなのですが、ただ、ほんの少しの不満があるとすれば、それは、物語の建て付けにちょっとばかり不自然なものを感じることです。『博士の愛した公式』でも感じたけれど、ここでは『ガイド』なんかそうだなあ。

小川洋子『海』(新潮文庫、2009)


風薫るウィーンの旅六日間
バタフライ和文タイプ事務所
銀色のかぎ針
缶入りドロップ
ひよこトラック
ガイド

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堀江敏幸のデビュー作『郊外へ』

Photo 堀江敏幸さんのデビュー作『郊外へ』は 1995 年に白水社から出版され、その後、2000 年に同社の新書、白水 u ブックスの一冊として刊行されました。著者自身のあとがきによると、「発売当時、本書はいわゆる留学体験をつづったエッセイ、もしくは紀行文として読まれ、書評などでもそのように扱われることが多かった」が、「一連の物語に登場する「私」とその周辺の出来事は、完全な虚構である」とされています。

内容は、フランス留学時にパリ近郊を散策したときの体験から、小説、写真、映画、音楽などに思いをめぐらした随想集のような体裁となっています。随筆集『回送電車』に先立つ散文として、しかも主題をパリ近郊に求めたものとして読むこともできます。

そして、この『郊外へ』はデビュー作にして、すでにゆるぎない独自の文学世界が構築されているのでした。

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堀江俊幸と串田孫一

Iii 引き続き、堀江さんの随筆集『アイロンと朝の詩人 回送電車 III』を読んでいます。第三集は 2004 年から 2006 までの間に発表されたものを中心にまとめられています。この中に日常的な生活を綴った文章があって、興味深いです。

『明かりの質』で、蛍光灯の明かりと質が苦手で、白熱灯の照明器具を使っていること。

『電子レンジ』で、ホット・ミルクを作るのに電子レンジを利用してみたら、おそろしく均一に熱くなるという現実にどうしても慣れることができず、行平鍋に戻ってしまったこと。

『いつでもどこでも、仕事ができる』で、鉋がけしたような均一な削りかすになる鉛筆削りの代わりに、不揃いなかすを出すナイフ、それもカッターは邪道と信じ、宗近肥後ナイフを砥石で生き返らせて使いつづけていること。

これらの随筆を読んでいると、『雪沼とその周辺』『河岸忘日抄』などの世界が、堀江さんの実生活と密接なつながりをもって描かれていることがわかります。

ここで、僕はどうしたって串田孫一『文房具 52 話』(時事通信社、1996)を思いださずにはいられない。これら生活の道具に対する接し方には串田さんに共通するものが多いと思います。

山口耀久編『アルプ 特集 串田孫一』(山と渓谷社、2007)が出版されたとき、新聞の書評欄で堀江さんは、

今後、串田孫一の文章に即した読解と正当な評価が、それにふさわしい言葉でなされていくことを期待したい。

と結んでいたのですが、僕は、堀江さんこそが串田さんの幅広い仕事を正しく言葉にできる一人に違いないと思うのでした。

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堀江敏幸『一階でも二階でもない夜 回送電車 II』

Ii ANNA さんと、堀江敏幸さんの小説『いつか王子駅で』の題名がディズニー映画の中の『いつか王子様が』に似ているねとお話ししていたら、みやさんが、エッセイ集『一階でも二階でもない夜 回送電車 II』の中の『始末書の書き方』にこの題名の由来が載っていますよと教えてくださいました。それで、さっそく図書館から借りて読んでみたら、なるほど、小説の題名がビル・エヴァンスの演奏する『いつか王子様が』の語呂合わせだったことを知ったのでした。

『回送電車』はこれまでに三冊が出版され、図書館には全冊が揃っているのですが、何となくむずかしい文章だなあという印象を受けていたので、ずっと後回しになっていたのです。むずかしいと感じていたのは、初めに置かれたエッセイ冒頭の長い文章にその理由があったのですが、ここを辛抱するとあとはいつもの語り口で、静かで落ち着いた堀江さんの世界が読者を迎えてくれます。

このエッセイ集では、堀江さんの小説でもときどき現れるフランスの風景やそこでの暮らしぶりが留学時代の思い出として生き生きと綴られ、読者はその場に居合わせたような気持ちになります。

また、彼の小説に共通している、特別にこれといった出来事が起きるのでもなく、淡々としていて、明確な起承転結を構成しないで、消え入るように終わるといった作風が『存在の明るみに向かって』の中で次のように明かされています。

面白いけれど結論がない。それなりに読めるけれど、たいした筋もない。これは他人ごとではなかった。当時、私は二冊の散文集を上梓していたのだが、得られた評の大半は、ほぼこのとおりだったからである。それが不当だと感じたのでも、失望したのでもない。まさしくそのような感覚をもたらす散文をこそ書きたいと望んでいる者にはあまりにも当然の感想で、なぜそれほどわかりきったことに言及しなければならないのか、理解に苦しんだというだけの話だ。

堀江さんの小説を読むことは、物語の中に身を置いて、そこに流れる空気を呼吸することであって、何らかの解決を期待するものではなく、筋や結論がないことをことさらに指摘すべきものでないことは、読者の誰もが感じていることです。

そのほかに、『トロンボーン』で、ベニー・グリーンのトロンボーンを繰り返し聴いていることとか、『「押し」のある活字』の中の活版印刷に対する思い入れとか、『好みの音』で、音源を CD から LP に戻し、檜の格子が嵌められた山水のスピーカーを古道具屋で買い求めたこととか、また、先の『回送電車』に収められた『アクセラレータ』で、モノクロ 9 インチ一体型のマッキントッシュを使いつづけていることとか、取り上げたらもう止まらないけれど、どうしてこんなにも嗜好が似かよっているのかと思うことがいっぱいあって、うれしくなります。

このエッセイ集を読んでいると、失礼を承知で、作者とお話ししてみたいなあと妄想が広がるのでした。

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古楽が流れる喫茶店

Photo 先日、新聞を読んでいたら、地方版に『心安らぐ古楽の香り』と題する記事が載っていて、こちらの地元、秋田県大館市内の喫茶店が紹介されていました。

これは、古楽 & ギャラリー『珈琲 ダウらんど』という名前の喫茶店で、開店してから今秋で十年目になるそうです。店名は、店主が敬愛する英国ルネサンス期の作曲家、ジョン・ダウランドから付けたとのこと。

店主ご自身がリコーダーを演奏する音楽家でもあり、店内でも不定期に演奏会が催され、この 16 日にもヴォーカルの宇田川貞夫さんとリュートの高本一郎さんが演奏し、その模様が写真で紹介されています。

地元にこんな喫茶店があったなんて知らなかったなあ。古楽が聴けるところはそんなにはないし、いちど行ってみたい。

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J・G・バラードの追悼文

5 月 21 日(木)付けの朝日新聞に映画評論家・翻訳家の柳下毅一郎氏の『汚染される人間の生を予言 英 SF 作家 J・G・バラードを悼む』と題する追悼文が載っていました。バラードは去る 4 月 19 日に 78 歳で亡くなったとのことです。気が付かなかったなあ。

この中で柳下氏はバラード後期の『残虐行為展覧会』と『クラッシュ』を取り上げ、「バラードはメディアとテクノロジーに汚染されたあらたな人間の生を描きだした」と評し、「それこそが二十世紀最大の作家が残したものなのだ」と結んでいます。

僕はバラードが 1950 年代末から 60 年代始めにかけて残したイメージあふれる数々の長短篇を愛読しているのですが、このあとに作風を一変させた一連の作品にはもう付いて行けなくなり、『残虐行為展覧会』なども途中で投げ出してしまったのです。

しかし、SF は外宇宙ではなく人間精神である内宇宙こそを探求すべきであるとする「新しい波」運動の旗手であったころの作品群のみをとってみても、やはりバラードは偉大だった。

だから、柳下氏の「カウンター・カルチャー側からの主流文学への反抗者として、バラードは鋭い刃をふるった。バラードはまちがいなくそのすべてだった」という評も、決して後期の作品のみを対象としたものではないと思うのです。

それにしても、愛読する作家が亡くなるのは悲しいものですね。

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菊地成孔、大谷能生 : 東京大学のアルバート・アイラー

Photo 菊地成孔、大谷能生の両氏ともその活動内容はおろか名前も知らなかった。彼らは 2004 年 4 月から翌年 1 月まで東京大学教養学部でジャズの講義を行ったが、聴講生の半数以上が学外からのいわゆるモグリで、その講義は異様な熱気を帯びたものになったということです。

このときの講義録がメディア総合研究所から 2005 年に『東京大学のアルバート・アイラー 東大ジャズ講義録・歴史編』、 2006 年に『同キーワード編』としてそれぞれ刊行され、この三月に二冊まとめて文春文庫から出版されたのです。

二冊のうちでは『歴史編』が格段に面白い。全体は、十二音平均律、バークリー・メソッド、MIDI を経由する近・現代商業音楽史という流れに沿って構成されています。

西洋音楽は十二音平均律の調律と調性のシステムを獲得したことで、記号化、標準化され、再現可能性が高まった。ボストンのバークリー音楽院で始められたメソッドは、曲の旋律と和声をメロディとコードに分割し、コードをある体系に従って記号化して表記し処理する方法を普及させた。MIDI は電化サウンド、律動中心で、バークリー・メソッドでは対応しきれないポップスに使われた。

こんな流れに従って講義は進行するのですが、この中でやはり最も興味深いのは、ジャズにモードを採用したマイルス・デイヴィスに触れたページ。今までのジャズ批評はディレッタントたちの印象論の枠内にとどまり、楽理を追求することがなかったのですが、ここでは、モードに至る必然性、『カインド・オヴ・ブルー』に採用されたモードの解説など、画期的な内容になっています。

このことは、同じ菊地、大谷コンビで『M / D マイルス・デューイ・デイヴィス III 世研究』(エスクァイア・マガジン・ジャパン、2008)としてまとめられているようです。でも、これは 776 ページもあって、価格も 4,935 円となっているし、図書館に購入してもらいたいなあ。

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アラン・シリトー : 漁船の絵

Photo 4 月 24 日付けの朝日新聞に、第 35 回川端康成文学賞が青山七恵さんの『かけら』に決まったという記事が載っていました。

僕はこの川端康成文学賞のことを知らなかったのですが、一年間に発表された短篇の中から選考されるもので、青山さんはベテランに贈られることが多かった同賞受賞の史上最年少とのことです。

記事には『かけら』の内容が一部紹介されるとともに、青山さんの話が載っています。青山さんの最も好きな短篇がアラン・シリトーの『漁船の絵』とのことで、「ある夫婦のすれ違いが、さらっと書かれているのにもかかわらず、訴えてくるものがいっぱいある」と述べています。

僕がこの『漁船の絵』を読んだのは学生のころで、集英社から出た「現代の世界文学シリーズ」の中の一冊『長距離走者の孤独』に収められていたものです。

ナイフで削ったようなザラッとした肌触りをもった文体、男の目から見た即物的な描写、そこに差し挟まれる短い会話。ここからは、青山さんの言葉どおり、多くの訴えが感じられます。

青山さんの小説はまだ読んだことがないけれど、こんな男っぽい短篇が好きというのが意外だった。

アラン・シリトー、丸谷才一・河野一郎訳 : 長距離走者の孤独(集英社)

長距離走者の孤独
アーネストおじさん
レイナー先生
漁船の絵
土曜の午後
試合
ジム・スカーフィデイルの屈辱
フランキー・ブラーの没落

© 1969

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ベルナール・ビュフェ『戦争のあと』

Buffet ベルナール・ビュフェという画家を初めて知ったのはインターネットの情報がきっかけでした。彼が描いた、黒く縁取りされたやせ細った人物画はいちど観たらもう忘れないほどの強い印象を与えます。

僕は四年前にいちど、静岡県駿東郡長泉町クレマチスの丘のビュフェ美術館を訪れました。このときに買い求めた小さな画集がこの『戦争のあと ベルナール・ビュフェの絵画 1945-1959』です。画集の初めのページにはジェームズ・ディーンのような彼の若いころの写真が載っています。写真と見開きになったページに記された彼の言葉もまた印象的です。

絵画は、それについて話すものではなく
また、いろいろ分析するものでもなく
ただ感じ取るものである。

ビュフェ美術館では版画を多く鑑賞し、その後、地元の美術館では油彩も何点か観ることができましたが、もっと会える機会が欲しいですね。それに、彼の絵は大きなものが多いので、大判の画集が出版されることを期待しています。


戦争のあと ベルナール・ビュフェの絵画 1945-1959

発行 : ビュフェ美術館
© 2005

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G・K・チェスタトン『木曜日だった男』

Themanwhowasthursday G・K・チェスタトン Gilbert Keith Chesterton の『木曜日だった男』が光文社古典新訳文庫から出たので読んでみました。訳は南條竹則氏。

チェスタトンというとなんといってもブラウン神父が主人公の一連の短篇がよく知られていて、創元推理文庫の中村保男氏の訳で読むことができます。この文庫からはほかにも何作か出ていて、こちらは未読ですが、福田恆存氏訳となっているあたり、なかなかに興味をそそられるところです。

さて、この『木曜日だった男』ですが、これは創元推理文庫では『木曜日の男』という題名になっています。このあたりの事情については新訳の解説で訳者が「The Man Who Was Thursday なんていう題名のついた小説は、ありきたりな話ではないことが一目でわかる。作者のためにも今回は原題をあえて逐語的に訳してみた」と述べています。

『木曜日だった男』には『一つの悪夢』A Nightmare という副題が付いています。全体を簡単に表現するとドタバタ劇ということになるのですが、随所にチェスタトン一流の逆説的な表現が散りばめられていて、なかなか読ませます。

その表現というのはたとえば「あの青年は本当は詩人ではないが、彼自身が一篇の詩であることはたしかだ」などというものなのですが、訳者自身の解説「チェスタトンは小説家というよりも、文人というよりも、ジャーナリストというのがふさわしい。強いていえば、詩人ジャーナリストであります」などを読むと、なるほどそうかと思わせます。僕などは、昨年、ノーヴェル物理学賞を受賞した益川さんの言葉を思い出しますね。

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村上春樹のエルサレム賞授賞式記念講演

3 月 3 日と 5 日付け毎日新聞に、二回にわたってエルサレム賞授賞式における村上春樹の記念講演の全文が掲載されました。パレスチナ自治区ガザ地区で起きた戦闘の当事国であるイスラエルの文学賞の受賞を拒否するように求める声の中で、「語らないことよりは語ること」を選択し、出席を決めた村上春樹の講演です。

彼はこの中で、「高くて頑丈な壁と、壁にぶつかれば壊れてしまう卵があるなら、私はいつでも卵の側に立とう」と述べています。この壁と卵という隠喩について考えながら読み進むうちに、「私が小説を書く理由はたった一つ、個人の魂の尊厳を表層に引き上げ、光を当てることです」という言葉にぶつかります。ここで、先の隠喩の意味がしだいに明らかになってきます。

このとき僕は、戦闘について具体的に述べることをせずに、抽象的ではあるけれどより普遍的な表現を用いて語ったことこそが、やはり第一線の小説家の仕事だなあと思ったのでした。

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堀江敏幸編『記憶に残っていること』

Photo 堀江敏幸の『未見坂』を読んでいて、巻末の出版案内で知ったのがこの『記憶に残っていること』。これは、1998 年に創刊された新潮クレスト・ブックスの 10 周年を記念して、これまで出版された短篇から堀江敏幸が編んだ 10 篇からなるアンソロジーです。

ここ 10 年の間に出版された世界の最も新しい短篇が味わえるとても贅沢なものであるとともに、堀江敏幸が選んだ 10 人の作家の 10 の短篇とはどういうものかといったことにも興味津々な一冊です。

まず、デイヴィッド・ベズモーズギス David Bezmozgis『マッサージ療法士ロマン・バーマン』Roman Berman, Massage Therapist (2004)。ラトヴィアからカナダに移住した移民一世と移住先で生まれた二世との意識の差。新天地でチャンスを得ようと頼りを期待した先で、手土産に届けた手作りのケーキを礼儀正しく、しかしきっぱりと拒まれる痛々しさ。僕は、学生のころに読んだアラン・シリトーの小説を思い出しました。

アンソニー・ドーア Anthony Doerr『もつれた糸』A Tangle by the Rapid River (2001)。暗いうちに起き出し、コーヒーやらソーセージやらライ麦パンを支度して釣りに出かける場面はヘミングウェイを思い出させます。そして、釣りの最中に起きた取り返しのつかない誤り。

エリザベス・ギルバート Elizabeth Gilbert『エルクの言葉』Elk Talk (1997)。人里離れた山小屋で暮らす夫婦と甥。そこに突然現れる闖入者。そして、野生動物に対する彼らの許しがたい行為。この短篇は、巷間かしましい「エコ」や「地球にやさしい」などという軽薄な言葉を吹き飛ばし、その真の意味を僕らに提示しています。

これらの 10 篇はそのどれもが小さな棘を持っていて、僕らは読み終えたあとにいつまでも消えない疼きを感じるのです。そして、僕は身を削るような創作行為から生み出されたこれらの小説を手にして、彼らの活動に限りない敬意を表したいと思うのでした。

最後に「人はなにかを失わずになにかを得ることはできない」と題する堀江敏幸の解説が載っています。

堀江敏幸編『記憶に残っていること』(新潮社、2008)

デイヴィッド・ベズモーズギス『マッサージ療法士ロマン・バーマン』
アンソニー・ドーア『もつれた糸』
エリザベス・ギルバート『エルクの言葉』
アダム・ヘイズリット『献身的な愛』
ジュンパ・ラヒリ『ピルサダさんが食事に来たころ』
イーユン・リー『あまりもの』
アリステア・マクラウド『島』
アリス・マンロー『記憶に残っていること』
ベルンハルト・シュリンク『息子』
ウィリアム・トレヴァー『死者とともに』

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堀江敏幸『未見坂』

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相変わらず堀江敏幸を読んでいます。これは去年出版された短篇集で、初出は 2004 年 6 月号から 2008 年冬号までの『新潮』『すばる』『群像』『考える人』。

帯に「『雪沼とその周辺』に続く待望の連作短篇集」と記されているように、やはり、ある架空の地域、春片に暮らす人びとの生活が淡々と綴られています。特別大きな出来事が起こるわけでもなく、地域の商店主や子どもの目を通してその暮らしが静かに語られているのも前作と同じです。

このような静かな短篇に共通しているのが消え入るように余韻を残した終わり方で、たとえばこんな具合です。

『苦い手』母の顔も、父が亡くなった日のように、マグカップで隠れるくらいに縮んで見えた。

『方向指示』あ、と修子さんはあわてて振り返り、現実の窓から外の世界を見やったが、自転車もひとも白っぽい球のような靄を残して、あとかたもなく消えていた。

シベリウスの曲やマイルズ・デイヴィスの『カインド・オヴ・ブルー』を思わせる終わり方だなあ。

雪沼や春片を舞台にした短篇をポツリポツリと発表している堀江敏幸の姿は、いろいろな長篇や短篇の合間に、ヴァーミリオン・サンズでの短篇を不定期に発表してきた J・G・バラードを思わせます。

堀江敏幸『未見坂』(新潮社、2008)

滑走路へ
苦い手
なつめ球
方向指示
戸の池一丁目
プリン
消毒液
未見坂
トンネルのおじさん

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井の頭の串田家

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『週刊文春』1 月 29 日号を読んでいたら、連載の「新 家の履歴書」に俳優の串田和美さんが載っていました。

串田和美さんは巣鴨に生まれ、山形に疎開し、巣鴨の家が戦災で失われて井の頭に移り、小金井に転居したのですが、いちばん思い出深いのが四歳から中学三年まで住んだ井の頭の家だったとのこと。

この井の頭の家が、屋根を取り除いた形で俯瞰されたイラストが載っています。離れのように突き出た部屋がお父さんである串田孫一さんの書斎で、「壁は全て本棚だった」と記されています。お父さんはここで書き物をしたり、絵を描いたりしていたそうです。

和美さんは、若い時は反発していたけれど、今になって父親の影響を感じ、井の頭にあったこの家の近くに住みたいと思うようになったと言っています。

今、北海道の斜里にある「北のアルプ美術館」に串田孫一さんの書斎を再現しようと準備しているのは小金井の家のものだそうです。

僕は筑摩書房から出た全集を持っている串田孫一ファンなのですが、書斎が完成したら、斜里の美術館に行ってみたいなあと思っています。

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秋田の県民性

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1 月 1 日付けの毎日新聞秋田版に「あきた県民性あれこれ」という特集記事が載っていました。

この記事に書かれているように、秋田の県民性は「しょしがり(恥ずかしがり)」で「ひやみこき(怠け者)」だが「えふりこき(見えっ張り)」。この三つは地元民にとってだれでも心当たりがあるものです。

ところが、秋田大学の日高水穂さんは方言学の立場からこう述べています。

「えふりこき」「ひやみこき」といった方言は、むしろこうした性格をよしとしない地域社会が秋田にあることを示している。メディアが秋田の問題を取 り上げる際、わかりやすい理由を求めたり、特殊性を強調するあまりこのように報じ、県民の側もそう認識し、納得してしまったところがある。

日高さんは何年か前にも同様のことをほかの新聞で述べていたのですが、地元に生まれ育った僕らには、新年早々、ま、そんなに悪くはないかと思わせてくれる言葉でした。

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レイ・ブラッドベリ『十月はたそがれの国』

Theoctobercountry

レイ・ブラッドベリの『十月はたそがれの国』(創元推理文庫、1965)をほんと久しぶりに読み返してみました。僕はこの短篇集を 1972 年に購入しています。この年には『黒いカーニバル』(早川書房、1972)も読んでいます。

この『十月はたそがれの国』と『黒いカーニバル』にはなかなか複雑な関係があります。

ブラッドベリがパルプ雑誌に発表した最初期の短篇群はまず 27 篇が纏められて Dark Carnival(1947)として出版され、その後に出た The October Country(1955)には Dark Carnival の中の 15 篇が改稿されて収められているようです。

『十月はたそがれの国』は宇野利泰氏による The October Country の全訳ですが、Dark Carnival は初版三千部が出ただけで絶版となったので、当然原著がなく、パルプ雑誌を蒐集していた野田昌広氏のコレクションから伊藤典夫氏が Dark Carnival を復元しようとしたのが『黒いカーニバル』というわけで、結局は完全な復刻はできなかったのです。

という事情からすると、Dark Carinival はブラッドベリのいわば私家版のようなものであって、The October Country はブラッドベリがデビューしてから編まれた短篇集ですが、いまだ多くの人たちに触れられているとはいえない不幸な短篇たちにも陽の目を見させてやったということになります。ブラッドベリのファンとしては改稿前の Dark Carnival の完訳を期待したいところですが、ここは上記二冊の翻訳を手にする以外には方法がないようです。

こうした事情を抱えた『十月はたそがれの国』ですが、後期の作品にみられるような無意味な饒舌がなく、瑞々しく、そして幻想的で、しかも堅く締まった無駄のない短篇群は読むものをどこかに旅立たせる何かに満ちています。

毎日「鏡の迷路」にやってくる『こびと』の悲しい悲しい物語、ひょんなことから迷い込んだすみかに落ち着き、毎日毎日休みなく働かざるを得ない『大鎌』のやるせない思い。

「これが SF ?」なんていう質問は、ま、だれかほかの方にどうぞ。

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アーサー・C・クラーク『幼年期の終わり』

Childhoodsend

先日京都に出かけたとき、新幹線の中でアーサー・C・クラークの『幼年期の終わり』(光文社古典新訳文庫、2007)を読みました。

「いま、息をしている言葉で」という名のもとに続々と古典の新訳を出版している光文社がとうとう SF にまで手を伸ばしたのです。ただ、この『幼年期の終わり』に関しては、1953 年に刊行された初版の第一章が米ソの宇宙開発競争を意識したものだったのに対して、それから 30 年ほど未来へ場面を移し、冷戦終結を織り込んだものにクラーク自身が一から書き直した版を使っているのです。ですから、この光文社文庫の『幼年期の終わり』は古典の再訳ではあるけれど、同時に新装版の新訳でもあるということになります。こうなると、前の版も読んでおけばよかったなあと思います。

『幼年期の終わり』はクラークの傑作として名高いし、物語はたしかに読んでいて面白い。そして、文明批評に満ちた最も SF らしい SF であると思います。でも、これは僕だけの感じ方かもしれないけれど、ほかの銀河系まで移動したり、高い空に浮かんだ宇宙船の中の異星人など、こういう大仕掛けがやはり気になります。食べ物の中に混じった異物のようにうまく喉を通らないのです。

かつての僕は早川書房の『SF マガジン』を定期購読していた SF 好きだったのですが、レイ・ブラッドベリや J・G・バラードの短篇に出会ってからは、もうこのような仕掛けを持った SF は読まなくなりました。

『SF マガジン』の表紙には「Science Speculative Fiction Fantasy」と記されていたと思いますが、僕の場合の SF は Science Fiction から Speculative Fantasy に変わってしまったのです。多くの SF ファンはブラッドベリやバラードは SF じゃないよと言うのかもしれないけれど、もしそうだとしても僕はそれでかまわないのです。

と、自分でもなにがなんだかわからないようなことを書いていますが、久しぶりに読んだ SF はやはり面白かったけれど、これを読んで、幻想的なブラッドベリや内的宇宙を志向したバラードのほうが自分の好みに近いんだなあとあらためて思ったのでした。

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毎日新聞の書評欄から

新聞を読んでいると、新潮社の出版案内に堀江敏幸の新刊『未見坂』が出ていますね。同じ新潮社から出版された『雪沼とその周辺』(2003)の続編と紹介されていますが、はたしてその内容はどんなふうになっているんだろう。

などと思っていたら、きのう付けの毎日新聞の書評欄にこの『未見坂』の評が載っていました。評者は湯川豊氏。この最後のほうで、こんなことが書かれています。

(略)こうして見てくると、前の短編集『雪沼とその周辺』との違いがはっきりしてくる。同じく平凡な人びとの日常を描きながら、あそこでは話の最後に至って人びとの日常が別の次元に移行する仕掛けがあり、その飛躍がカタルシスになった。この『未見坂』ではそうした飛躍はほとんどない。エピソードの連続が日常のなかでさざ波を立てつつ、また日常の人生に没してゆく。(略)

ということは、さらに渋い味わいの短編集なのかな。

・・・やっぱり読みたくなりますね。

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「粋イズム ネットオークション」

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朝日新聞(こちらでは 11 月 14 日付け)に「粋イズム ネットオークション」という小さな記事が出ていました。

ヤフー・オークションに出品している vintageking2005 さんのことが紹介されています。中高年のコレクターに根強い人気がある 50、60 年代のモダン・ジャズに絞って、アメリカでオリジナル盤を買い付けて、出品しているのだそうです。毎月 1,000 枚を買い、翌月にはそれがすべて売れてしまうとのこと。

そこで、さっそくヤフー・オークションのページを覗いてみたら、彼が出品したレコードはほとんどがすでに入札されていて、締切りが近いものでは一万円を超えているのもあります。最終的な落札価格はどのくらいまでになるのだろうと考えてしまいます。

オリジナル盤というのは初回プレスのレコードで、再発売されたものとは音が格段に違うということでコレクターに人気があるし、また、こういった方のオーディオ装置は立派だけれど、僕が持っているレコードはほとんどが国内盤だから、ちょっと縁のない世界なのです。

でも、数少ない輸入盤を聴いてみると、国内盤はなにかこうヴェールが一枚かかったような音なのに対して、輸入盤はヴェールがとれて、クリアになっている感じがするのが多いですね。これが、立派なオーディオ装置だと、さらに違いがはっきりするということなのでしょう。

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吉田秀和『永遠の故郷 夜』

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これは、発売のときに集英社の読書情報誌『青春と読書』で、吉田秀和と堀江敏幸の対談とともに取り上げられた評論集で、すぐに欲しくなって購入したものです。月刊『すばる』に連載されたもの 12 篇が取り上げられています。

今まで吉田氏もあまり取り上げなかった歌曲を、詩と、それに作曲した曲が手書きの楽譜入りで論じられています。

この中で、僕がレコードで持っているのはフォーレの『月の光』だけなのですが、この短い曲を、第一節は p で出発し・・・、第二節は・・・、第三節は・・・と、実にていねいに分析しています。僕はこんなふうに歌曲を聴いたことなんてないし、どちらかというと、シャンソンを聴くような感じで流して終わりなのです。だから、吉田氏の文章はとても深く感じられ、僕には正直言ってよくわからないところが多いです。

それから、ドイツ歌曲の大きな柱であるヴォルフが数篇連続しています。ヴォルフは、ラ・サール四重奏団が演奏した弦楽四重奏曲 1 曲を CD で持っているきりで、この長大な曲も僕には捉えようがないし、この先、彼の歌曲を聴くこともおそらくないだろうと思うのです。

ですから、僕は、吉田氏のこの新刊をひとつのエッセイとしてとらえ、そこから彼の文章を楽しむという形で接しているだけなのです。

吉田秀和『永遠の故郷 夜』(集英社、2008)

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堀江敏幸『ゼラニウム』

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堀江敏幸はもうこれで八冊目。

六篇の短篇集で、五篇がフランスを舞台にしたもので、最後の一篇は東京になっていますが、いずれも外国人たちと交流が描かれています。帯には「日常の揺らぎを転写する、あたらしい散文のかたち」と記されていて、読み手を誘います。

『薔薇のある墓地』で、冒頭、水道橋を眺めながら歩く場面が印象的です。そして、最後、薔薇を横たえて黙祷するなんとも悲しい物語。

『ゼラニウム』の中の事件は、作者のフランスでの生活を思わせる雰囲気にあふれています。そして、『梟の館』の初めに記されている洋書の買い方は、『考える人』秋号で堀江敏幸自身が述べているとおりのもので、作家の日常的経験そのものだったことを思わせます。

堀江敏幸の小説はどれも印象的な装幀が多いのですが、この本も、クリーム色の地に臙脂色で小説の題名、黒で作者と出版社の名前というシンプルなもの。題名と作者名が四角で取り囲むように型押しされ、アクセントになっています。そして、帯の地と栞は題名の臙脂色で統一されています。

それに、何よりも、活版印刷で印刷されているのに驚きます。いま、活版印刷の本を手にするとは思いもしませんでした。印刷所は凸版印刷となっています。

指先で活版印刷のポツポツとした凹凸を感じながら読み進むのもいいものですね。

堀江敏幸『ゼラニウム』(朝日新聞社、2002)

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『考える人』秋号

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『考える人』秋号の特集が「堀江敏幸と歩くパリとその周辺」ということなので、さっそく買ってきて読んでいます。

堀江敏幸が、パリ郊外に住んで執筆を続けているジャン=ルー・トラッサールとミシェル・トゥルニエという二人の作家を訪ねる紀行文、ないしはエッセイのようなものになっています。どちらも知らない作家だし、トラッサールにいたってはまだ一冊も紹介されていないということなので、どんな作風なのかは知るよしもないのですが、記事の中の写真や堀江敏幸の文章からは二人を敬愛している様子がじんわりと伝わってきます。

二人とも高齢な作家で、トラッサールは万年筆で執筆し、タイプライターで浄書、トゥルニエもやはり万年筆で執筆し、パソコンで浄書するとのこと。どちらも浄書したものを出版社に渡すのですが、いいですね、こういうのは。

そのほか、堀江敏幸が革張り工房を訪ねた記事やパリの書店めぐりも載っていて、楽しいです。書店めぐりの中で、フランス綴じのアンカット版について「アンカット版はページを切らなければ本の役割を果たさないけれど、なんでもかんでも切ればよいというわけでもない。どうしても、という段になったときだけ覚悟を決めて読む本があってもいいのだ」と記していて、彼の本好きぶりが披露されています。

それから、この特集とは別に、第七回小林秀雄賞の選評が載っていて、選考委員の一人である堀江敏幸は、その前半にこんなことを書いているのにハッとしました。

書き手の側からすれば、ながい時間をかけて出来上がった文体が、やがてその文体の範囲内でしか表現できない軛となるという展開は自明であって、物書きはみな、そうとわかっていながら、壊すために一旦、その軛を作る。(中略)だから、自覚的な変化を自らに課す場合、外からわからない程度の微量の薬物を混入させて、徐々に内側から変容させていく方策を選ぶ。

なるほど、作家の変化とはこういうものだったのか。

僕は、村上春樹も川上弘美も最初期の作品群が好きだったのですが、作風が変化してからはほとんど読まなくなっています。堀江敏幸にしても『河岸忘日抄』では主人公を「彼」という三人称にするなど、それまでの作品からはちょっとした変化がみられましたが、この先にまた大きな変化が訪れるのかもしれません。

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『作曲家別名曲解説ライブラリー バッハ』

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去年、この街に書店のジュンク堂が出店しました。発売から日が経って、普通の書店には置いていない単行本や雑誌のバック・ナンバーがそろっていて、また寄ってみたいと思っていたのですが、その後、体調をこわして、ずっと足が遠のいていたのでした。

この間、一年ぶりに寄ってみて、音楽関係の棚をながめていたら、興味深い本がいっぱいならんでいました。その中に音楽之友社の「作曲家別名曲解説ライブラリー」が、バッハ、ベートーヴェン、モーツァルトとあって、しばらく迷ったあとに選んだのがこのバッハです。

帰ってからこの本をパラパラ読んでいたところ、「ヴィオラ・ダ・ガンバとチェンバロのためのソナタ」のページで弦楽器の種類について詳しく書かれていました。この内容はなかなか複雑なのですが、要約すると次のようになるようです。

ヴィオラ・ダ・ガンバは脚の弓弦楽器という意味で、何もヴィオラの一種というのではないこと、そして、これに対して、腕の弓弦楽器はヴィオラ・ダ・ブラッチョと呼ばれていた。

まず、弓弦楽器を楽器の支え方によって二つのグループに分け、今日ではヴィオール属と呼ばれることの多いグループをヴィオラ・ダ・ガンバ、ヴァイオリン属のことをヴィオラ・ダ・ブラッチョと呼んだ。したがって、ヴィオラ・ダ・ガンバはヴィオール属、ヴィオラ・ダ・ブラッチョはヴァイオリン属の同義語である。

しかし、チェロはヴァイオリンやヴィオラと同じくヴァイオリン属=ブラッチョ属なのであるから、楽器の支え方のみではガンバ属=ヴィオール属、ヴァイオリン属=ブラッチョ属と厳密に区別はできない。

それは、五度間隔に調弦された四弦をもつのがヴァイオリン属の重要な特徴であり、チェロもこれと同様だからである。これに対し、標準的には、中央の長三度の他はすべて四度間隔に調弦された六弦からなるのがガンバ属=ヴィオール属なのである。

と、まあこうなるのですが、むずかしいですね。

このヴィオラ・ダ・ガンバのソナタは現在はチェロで演奏されることが多いのですが、たとえば、ブランデルブルク協奏曲第六番は、今でもあえてチェロとヴィオラ・ダ・ガンバを使い分けているのは、これまたどうしてでしょうか。

当然何らかの理由があるのでしょうが、僕にはわかりません。

ということで、解説があれば曲を聴く楽しみが大きくなるのですが、あればあったで、また新たな疑問がわいてくるというのが悩ましいですね。

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堀江敏幸『めぐらし屋』

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堀江敏幸の『めぐらし屋』を読んだ。堀江敏幸はもうこれで七冊目。

これまで読んだものと同じように、物語に大きな起伏はない。主人公の女性をめぐる日常が静かに淡々と語られるだけ。淡い色彩の水彩画を観るように、輪郭のあいまいな情景が浮かんで消える。そして、何かを解決するというのでもなく、物語は終わる。

だから、物語の中の出来事を拾い上げて、その展開に期待してみても意味のないことで、読者は物語全体の流れの中に身を置くしかない。その流れの中にあるものが読者の心に触れるのだ。

それから、このブログにいつもコメントを寄せていただいている ANNA さんがおっしゃったように、有山達也さんの手になる装幀がすばらしい。

薄いグレーの地に細長い黄色の紙片を貼ったような広い空間に、本の題、著者、出版社の名前が細い明朝体で配置されているデザイン。そして、見返しと栞がこの黄色に統一されているところなど、本を開く楽しみにあふれている。

さらに、この小説の内容とは関係がないのだが、物語の終わり近くになって、墓に供える花を選ぶところで、ベラドンナという言葉に驚いた。ベラドンナというのは花の名前だったのか。

というのは、J・G・バラードの処女作『プリマ・ベラドンナ』(1956)という近未来 SF を思い出したからなのだ。

『プリマ・ベラドンナ』はヴァーミリオン・サンズという架空のリゾート地を舞台にした一連の短篇の中のひとつで、歌う草花を題材にしている。だから、ベラドンナという花の名前を入れたこの短篇の題名はいささか皮肉が感じられるものだったというわけだ。

堀江敏幸『めぐらし屋』(毎日新聞社、2007)

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小川隆夫『ザ・ブルーノート、ジャケ裏の真実』

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国内の批評家が書いたジャズ・レコードのライナー・ノートは、現在の視点から過去を俯瞰するように記述されているものが多い。つまり、「このレコードはマイルズ・デイヴィスの生涯の傑作であると同時に、モダン・ジャズ史上においても最重要の作品である」などという記事なのだが、過去に録音された作品を聴く以上、このようなものになるのはしかたのないことかも知れない。そして同時に、僕らには歴史的に評価の定まった作品を選んで聴いていたほうが安心していられるという気持ちがどこかにあって、国内のライナー・ノートはこのような聴き手のいわばブランド志向に沿ったものを提供しているとも言える。

聴き手の心の中に隠れているこのブランド志向というのはやっかいなものだ。たとえば、演奏家の経歴を紹介する「バークリィ音楽院に入学し、著名なジャズ・メンと共演」などという記事でこのブランド志向を刺激する。誤解を恐れずに言えば、僕らはこのような記事の内容を、演奏家を聴くときの安心ないしは満足の担保としているのだ。

これはクラシック音楽界でも同様で、演奏家の経歴は音楽コンクール入賞という形で示されるけれど、一位、二位というのはいいとしても、「一位なしの二位」などという記事を目にすると、僕はもうなんだか悲しくなってくる。

本書は、このような視点から離れ、いまだ陽の目を見ない新人ジャズ・メンの音楽をせっせと録音し続けていったブルー・ノート・レコードのその時点で書かれたライナー・ノートを紹介したものだ。著作権上の問題があって、全文を引用できないのはもちろんだが、それでも、実に的確に演奏家を紹介している批評家たちの記事が新鮮だ。

マイルズ・デイヴィスの繊細な響きを「マイルズの音色は、卵の殻の上をひとが歩いている様子を思い起こさせる」と表現した有名な比喩は『マイルズ・デイヴィズ 第二集』の中のレナード・フェザー氏のものだ。

小川隆夫『ザ・ブルーノート、ジャケ裏の真実』(講談社、2008)

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川上弘美『東京日記 2』

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川上弘美の初期の SF を思わせる小説が好きだった。彼女自身も J・G・バラードが好きだったと述べているし、SF 雑誌『季刊 NW-SF』にも投稿していたらしい。

それが、『センセイの鞄』(平凡社、2001)あたりから恋愛小説が多くなったので、小説はあまり読まなくなった。それで、エッセイなどを読んでいる。

『東京日記 2 ほかに踊りを知らない。』(平凡社、2007)は『東京日記 卵一個ぶんのお祝い。』(平凡社、2005)以来のエッセイのような短篇小説のような日記。

パラパラ読んでいくと、こんなのが出てくる。

十一月某日
おなかをこわす。
熱も出てくる。
一晩じゅうベートーベンの夢を見る。

と、この日はこれで終わりなんだけど、いつものカワカミ節がなつかしいなあ。

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堀江敏幸『河岸忘日抄』


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堀江敏幸は、今年の初め、入院したときに『雪沼とその周辺』(新潮社、2003)を読んでから、『熊の敷石』(講談社、2001)、『おぱらばん』(青土社、1998)、『いつか王子駅で』(新潮社、2001)、『もののはずみ』(角川書店、2005)と読み継ぎ、この『河岸忘日抄』(新潮社、2005)が六冊目になった。短期間のうちに一人の作家の作品をこんなに読んだことに自分でも驚いている。

やはり、彼の作品のあまり物語性を感じさせない散文的なところ、そのために、退屈なようでいて、でもかえってそれが心地よさにつながっているところ、そして、自分の気持ちに寄り添うような存在感、そんなところに魅力を感じているのかもしれない。

『河岸忘日抄』は、その昔樽の運搬に使われ、今は河岸に繋留されたままの平底船を住居のために借りるところから始まり、船の大家である老人が亡くなるというところで終わる。その間の三人称「彼」で語られる隠遁者のような生活が綴られている。

その生活というのは、ときどき訪れる郵便配達夫と一緒にコーヒーを飲んで話したり、少女のためにクレープを焼き、スグリのジャムで食べたり、船の大家の自宅に出向いて語り合ったり、日本に住んでいる枕木さんという人とファクスでやりとりするといったもの。そして、船室に置かれた本を読み、レコードを聴く。船室に調度品として置かれた樽からクロフツの推理小説『樽』に思いを馳せたり、このような生活から鴨長明『方丈記』の中の記述を考えたりする。

こんな小説だから、エッセイのような雰囲気も感じさせる。これがなんとも心地いいのだ。

それから、小説の内容とはあまり関係がないのだが、冒頭、船を借りるときの大量の調度品の明細が「床−チーク材の寄せ木、合成樹脂塗布済み。窓−チーク材、引き戸式、透明ガラス枠には合成樹脂塗布済み、八枚。・・・」「フライパン−銅製、二十七センチ、一個。・・・」などと、四度にわたってしつこく紹介されている。これによって、船の大家の今までの生活ぶりが想像されるようになっている。

この中で「音響機器一式−ネイム NAP250、同 NAC62、Hi-CAP、CD1、ロジャース LS3/5A、リン・ソンデック LP12」というのが出てくるのだが、これには驚いた。小説の中の記述だからなんとも言えないけれど、『もののはずみ』で蚤の市で求めた小物をこれでもかというくらい紹介している堀江敏幸のことだから、ロジャース LS3/5A、リン・ソンデック LP12 なども彼自身の趣味かもしれないなと想像できるところが楽しい。

LS3/5A と LP12 にはあこがれるなあ。

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世界遺産ディスク

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『レコード芸術』誌八月号が『世界遺産ディスク』の特集になっていて、ちょっと俗っぽいけれどこれがなかなか面白いとのことなので、借りて読んでいます。

批評家が選んだこの世界遺産は、交響曲、管弦楽曲、協奏曲、室内楽曲、器楽曲、オペラがそれぞれ七枚、声楽曲が五枚、音楽史、現代曲が二枚で、これらの他に次点作となる候補ディスクがそれぞれ何枚か挙げられています。

僕はクラシック音楽のレコードを少ししか持っていないのですが、それでも、この中で取り上げられているものがいくつかあって、たとえば、エフゲニー・ムラヴィンスキー指揮レニングラード po のチャイコフスキー:交響曲第六番『悲愴』とかアマデウス四重奏団、セシル・アロノウィツ、ウィリアム・プリースのブラームス:弦楽六重奏曲、弦楽五重奏曲とかグレン・グールドのバッハ:ゴルトベルク変奏曲(二種)などですが、これを読んでいると楽しいです。

ほかに欲しいものもいっぱいありますね。

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四谷「いーぐる」の 100 枚

100

先日の東京行きで、往復の新幹線の中で後藤雅洋『ジャズ喫茶 四谷「いーぐる」の 100 枚』(集英社新書、2007)を読んだ。

四谷の「いーぐる」は東京では最も便利な場所に現存するジャズ喫茶で、機会があるとときどき寄っていた。この本では、開店以来 40 年間にわたって「いーぐる」のターンテーブルに載ったレコードを紹介している。

あとがきの「ジャズ喫茶というところはお客がつくる空間だ」という言葉どおり、批評家が選ぶレコードとは違い、そのときどきにリクエストされたレコードが紹介されていて懐かしい。そして、それらの一枚一枚に、リスナーの支持に裏打ちされた圧倒的な力強さを感じる。

後藤氏は「もし、私のジャズ観を比較的まっとうだと思っていただけるとしたら、それは「いーぐる」のお客様の志向がまっとうだったからである」と述べている。そして、雑誌に載る批評を提灯記事と揶揄するなど、ジャズ喫茶の一店主としてポップ・カルチャーを牽引してきたという自負が感じられる。

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破壊せよ、とアイラーは言ったのか

Ingreenwichvillage

図書館から『中上健次エッセイ撰集[青春・ボーダー篇]』(恒文社、2001)を借りてきて、この中の『破壊せよ、とアイラーは言った』をパラパラめくって読んでいる。

中上健次の著作にこのエッセイがあることはずっと前から知っていた。ところが、アルバート・アイラーのジャズを聴くたびに、このエッセイの題名にいつも違和感を感じていた。「破壊せよ、とアイラーは言った」とはいったい何なのか。そこで、彼のこのエッセイをいつかは読んでみようと思っていたのだ。

巻末の解説によれば『破壊せよ、とアイラーは言った』は 1979 年に集英社から出た 30 数篇のエッセイ集なのだが、恒文社の撰集はこれから数篇、さらに他の単行本からのものも入れて一章としたもの。

この中で興味深いのは冒頭の『吹雪のハドソン川 アルバート・アイラー「ゴースト」』という一篇。ニュー・ヨークのケネディ空港に降り立ったときの寒さに驚き、タクシーから吹雪のハドソン川を眺めたとき、1969 年に変死体となってこの川に浮かんだアイラーを思う。そして、現地で聴いたマッコイ・タイナーは新鮮でパワフルではあったが、生前の宗教性を持ったジョン・コルトレーンに吸い込まれそうなものとは比較にならなかった。つまり、ジャズがもう死んだのを知る。

と、僕に興味があったのはこの一篇のみで、他のものは 1960 年代後半のジャズとはあまり関連のないことが語られているだけだ。それに、彼にしてもこの一時期を除いてジャズは聴かなくなっていたらしい。十代で初めて酒を飲んだのは酒屋から盗んだウィスキーだったとか、女と一緒にクスリをやったとか、そんな話を十年後に語ったところでいったい何になるというのだろう。たしかに時代の空気は感じられる。しかし、肝心のエッセイ集の題名は何なのかはわからずじまいだ。

いま『グリニッチ・ヴィレッジのアルバート・アイラー』を聴いてみると、シンプルな主題のあと、引き裂かれたような音で多彩なヴィブラートを伴いながら奏でられる彼のジャズからは、それまでにはない強烈なエモーションを感じるが、それをいきなり破壊と結びつける感覚はいささか単純で情緒的に過ぎないかと思うのだ。

「若かりし頃のルイ・アームストロングが演じていたような、歓びと美しさに満ちた音楽」の再生を念願していたというアイラーが残した無垢な音楽を、僕はこれからも聴き続けていきたい。

Albert Ayler in Greenwich Village (Impulse)

For John Coltrane

Albert Ayler (alto sax)
Joel Freeman (cello)
Bill Folwell (bass)
Alan Silva (bass)
Feb.26, 1967, Village Theater, NYC

Change Has Come

Donald Ayler (trumpet)
Albert Ayler (tenor sax)
Michel Sampson (violin)
Joel Freeman (cello)
Bill Folwell (bass)
Alan Silva (bass)
Beaver Harris (drums)
Feb.26, 1967, Village Theater, NYC

Truth Is Marching in
Our Prayer

Donald Ayler (trumpet)
Albert Ayler (tenor sax)
Michel Sampson (violin)
Bill Folwell (bass)
Henry Grimes (bass)
Beaver Harris (drums)
Dec.18, 1966, Village Vanguard, NYC

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作曲家別名曲解説ライブラリー

Library

図書館に音楽之友社『作曲家別名曲解説ライブラリー』のシリーズが揃っているので、ときどき借りてきて読んでいる。

どの本もとてもきれいな状態なので、いつも、この手の本は借りる人が少ないのかなあと思っている。でも、いつだったか、図書館でこのシリーズの『ロシア国民楽派』を抱えた中学生くらいの男の子を見かけたときは何となくうれしくなった。

どのシリーズも、初めに作曲家の生涯、次に交響曲、管弦楽曲、協奏曲、室内楽曲などが総括されて、曲ごとに譜例が示されて解説されるといった内容で統一されている。僕は今、ハイドンのものを借りてきて、交響曲や弦楽四重奏曲を聴きながらこれを読んでいるわけだけど、曲を聴くうえでとても勉強になるんだなあ。

図書館から借りるばかりではなく、手元に置いておきたいと思うものもあって、ブルックナーのものだけは購入した。彼の交響曲は長いので、こういう解説がないとうまく聴くことができないのだ。

ただ、どの本もわりと値段が高いので、簡単に購入するというわけにはいかないけれど、ハイドンのほか、バッハ、ブラームス、マーラー、新ウィーン楽派、北欧の巨匠(グリーグ / ニールセン / シベリウス)あたりは欲しいなあ。

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誰にも媚びていない音楽

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イラストレータの和田誠がジャズ・ミュージシャンたちを描いた個展を開き、これに目を留めた小説家の村上春樹がエッセイを寄せたのがきっかけとなって、一人のミュージシャンあたり一枚のレコードを紹介するという形で『ポートレイト・イン・ジャズ』(新潮社、1997)と題する本になった。これが好評だったらしく、続編の『ポートレイト・イン・ジャズ 2』(新潮社、2001)も出版された。

そしてさらに、これらの本で紹介されたミュージシャンたちのレコードの中から二人が選んだコンピレーション・アルバムがポリドールとソニー・レコードからそれぞれ一枚出ている。

僕はこの二冊が好きで、今でも繰り返し絵を見ながら読んでいる。村上春樹の文章には独りよがりだったり、思い込みが強かったり、また、ずいぶんと筆が走った箇所もあるのだが、やはり聴き込みが深いし、それを適切に表現する力は文筆家のものだなと納得させられてしまう。

それに、古いトラディショナル・ジャズのミュージシャンなどを取り上げていることにも驚く。だいたい、今どき、ビックス・バイダーベックのことを書いた記事など目にすることはないし、これからだってそうだろう。

村上春樹はバイダーベックをこのように紹介している。

ビックスの音楽を耳にした人がおそらく最初に感じるのは、「この音楽は誰にも媚びていない」ということだろう。コルネットの響きは奇妙なくらい自立的で、省察的でさえある。ビックスがじっと見つめているのは、楽譜でも聴衆でもなく、生の深淵の中にひそむ密やかな音楽の芯のようなものだ。そのような誠実さに、時代の違いはない。

ビックスの偉大な才能を知るには、たった二曲を聴くだけで十分だ。"Swingin' the Blues" と "I'm Comin' Virginia"。(中略)たった三分間の演奏の中に、宇宙がある。

僕がバイダーベックを聴いたのは高校生のころで、At the Jazz Band Ball 一曲が最初で最後のものだったが、コンピレーション CD にこの二曲が収録されているのはありがたい。遠く 1920 年代に録音されたこれらの演奏はたしかに自立的という言葉そのものだし、フランキー・トランバウアーとの共演は彼ら二人にしか到達し得ない高みに達していて、それゆえに孤独の陰さえ感じる。

ひるがえって、僕たちの生活の周りに絶えず流れている音楽は、・・・という話はしないでおこう。特に、バイダーベックを聴いたあとでは。

Portrait in Jazz (Verve)

Bloomdido (Charlie Parker)
The Jitterbug Waltz (Herb Geller)
No Problem (Art Blakey)
Move (Stan Getz)
My Foolish Heart (Bill Evans)
The Rocks in My Bed (Duke Ellington)
These Foolish Heart (Ella Fitzgerald)
Out There (Eric Dolphy)
Shiny Stockings (Count Basie)
Sometimes I'm Happy (Nat King Cole)
Dizzy's Blues (Dizzy Gillespie)
Jakie-ing (Thelonious Monk)
Louise (Lester Young)

Portrait in Jazz (SONY)

When You're Smiling (Billy Holiday)
Moonlight on the Ganges (Benny Goodman)
I'm Comin' Virginia (Bix Beiderbecke)
What Is There to Say? (Gerry Mulligan)
It's You or No One (Dexter Gordon)
A Ghost of a Chance (Chu Berry with the Cab Calloway Orchestra)
West End Blues (Louis Armstrong)
Breakfast Feud (Charlie Christian)
Singin' the Blues (Bix Beiderbecke)
Walkin' (Miles Davis)
I Can't Get Started (Billy Holiday)

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ボブ・ディランって何者

先日、朝日新聞(こちらでは 4 月 26 日付け)文化欄に『ボブ・ディランって何者』という記事が載っていた。これは、同日にディランを描いた映画『アイム・ノット・ゼア』が公開されたことに伴って記事が組まれたもの。

ディランは 4 月にピュリッツァ賞特別賞を受賞したとのことで、また、毎年、ノーヴェル文学賞候補に取りざたされているのだそうだ。知らなかったなあ。

記事を拾ってみると、こんな言葉が目を引く。

人は、ローンを組みたがる。人生コースを型にはめ、年をとる。でも、ディランはいつも現金払いなんだ。

ディランのは詩としての歌だし、歌としての詩。セットでないとうまく作動しない。ホメロスと同じ、口承文学なんです。

ディランは『人には本名、主体がある』という考えをとらないし、それでいいと示してくれる。

成熟を拒否し、大地に根を張らず、何者でもない者であり続ける。

それと、The Times They Are a-Changin'、Like a Rolling Stone、I Shall Be Free No.10 からの訳詩の一部が紹介されているけれど、僕が好きなのは『ラヴ・マイナス・ゼロ』の、

真夜中の橋がふるえる
いなかの医者が散歩する
銀行家の姪が完全をもとめ
聖者たちからの贈物をすべて期待する

といったシュールリアリスティックな詩だったなあ。

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『知るを楽しむ』五月はグレン・グールド

身体の不調で、平日は車で家と職場との往復、休日は家でブラブラしているという生活がずっと続いていた。それでも、ここしばらくは少しずつ体調が回復してきたように感じていたので、きのうは久しぶりに街に出た。

街を歩く女性たちはまだ重い感じの服装で、淡い色合いのファッションになるにはもう少しというところ。

デパートで買い物をしてから本屋さんに入った。間歇性跛行症でいちばん困ったのが本屋で立ち読みができなかったことだったから、少しの間でも入ることができたのはうれしい。

ここでまず吉田秀和の新刊を注文。そして立ち読みしていたら、NHK 教育の『知るを楽しむ』のテキストが平積みになっていた。

『知るを楽しむ』の火曜日は『私の人物伝』で、四月の『ヘルベルト・フォン・カラヤン 時代のトリック・スター』と五月の『グレン・グールド 鍵盤のエクスタシー』が一冊のテキストになっていた。

カラヤンについては第一回がもうすでに 4 月 1 日に放送されているけれど、8 日に再放送が予定されている。番組の進行がコラムニストの天野祐吉となっているのでどうかなあという気持ちもあるけれど、ま、録画しておこうかなと思っている。

五月のグールドが楽しみだ。

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古典の新訳で

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最近、古典の新訳がブームになっている。

このブームの火付け役となったのは J・D・サリンジャーの The Catcher in the Rye の村上春樹訳『キャッチャー・イン・ザ・ライ』(白水社、2003)であるようだ。村上春樹の瑞々しい訳は、野崎孝訳『ライ麦畑でつかまえて』(白水社、1985)の頃の世界をいちど洗い直した新鮮な魅力に満ちている。

そしていま、光文社の古典新訳文庫が部数を伸ばしている。この中でも亀山郁夫訳のドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』全五巻はベスト・セラーになっているようだ。

さすがにこんな複雑で長いものには手が出ないので、この文庫の中の短いものをいくつか読んでみた。たとえばこの丘沢静也訳のカフカ『変身』。やはりずっと読みやすくなっていると思う。

ただ、会話文の中で、グレーゴルの妹が「きょうはおいしかったんだ」とか「あたし、買ってきてもいいよ」とか、母親が「それにさ、どうなのかな」という言い方は確かにこの文庫が目指す「いま、息をしている言葉で」のとおりなのだが、時代的な背景を考えても、女性の話言葉としては微かな違和感を感じる。

それに細かいことだけど、縦書きであるのに「2 回目」「3 人」などという表記は役所の文章を読んでいるようだ。ここは、やはり「二回目」「三人」として欲しいなあ。

ま、僕自身の感覚が古いからだろうけど。

カフカ『変身 / 掟の前で 他二編』(光文社古典新訳文庫、2007)

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堀江敏幸の小説をもう一冊

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前に読んだ連作短篇集『雪沼とその周辺』がとても静かで、たいそう気に入ったので、堀江敏幸の小説をもう一冊読んでみた。

三編はいずれもフランスに留学中の出来事を題材にしたと思われる短編集で、「熊の敷石」や「砂売りが通る」という題名もフランスの寓話やこの国の言葉の言い回しであることがそれぞれの短篇の終わり近くに明かされる。

『熊の敷石』など、しばらくぶりに訪れた「私」が昔の友人と落ち合って、フランス国内を旅するという話が淡々と綴られて、明確な起承転結がなく、スッと消え入るように終わってしまう。

友人との関係も決して密で濃厚なものではなく、どこか不確かで、この先にまた会えるという可能性も感じさせない。

本の帯には、本文からこんな文が引用されている。

ながくつきあっている連中と共有しているのは、社会的な地位や利害関係とは縁のない、(中略)それじたい触れることのできない距離を要請する炎みたいなもので、国籍や年齢や性別には収まらないそうした理解の火はふいに現れ、持続するときは持続し、消えるときは消える。

堀江敏幸の小説中の人物からはいつもこのような関係性を感じるのだけれど、こんなところが自分の感覚に合っているのかも知れない。

堀江敏幸『熊の敷石』(講談社、2001)
熊の敷石
砂売りが通る
城址にて

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病室で読んだ本

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入院して手術を受け、その痛みが引いてから傷が癒えるまでの間に、堀江敏幸『雪沼とその周辺』(新潮社、2003)を読みました。

吉田秀和との対談で初めて知った堀江敏幸ですが、とても的確な受け答えで吉田氏の発言を補完していたという印象のあった彼の小説をこの機会に読んでみようと思ったのでした。

『雪沼とその周辺』は山あいの静かな町、雪沼での人々の生活を綴った連作短篇集となっていて、どの短篇でも際立った出来事は何も起こらない。ただ、そこで生活する人たちの日常が静かに語られているだけです。

たとえば、この中の『レンガを積む』。

廃業したレコード店を引き継いだ主人が、ここで使われていた古い家具調ステレオのスピーカーをすっきりと締まった低音になるように調整し、フィッシャー=ディースカウの『美しい水車屋の娘』の伴奏の抜けが良くなり、低音もしゃきっとして、明るいバリトンが響くようになったという、ただこれだけの話。

この話が繊細で落ち着いた語り口で綴られているのですが、なんとも言えず、いいんだなあ。

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加島祥造のこと

加島祥造の『求めない』(小学館)がベスト・セラーになっているようです。

求めない—すると、本当に必要なものが見えてくる
求めない—すると自由になる

こんなぐあいに続くのですが、自分としてはこういう詩は苦手だなあ。

加島祥造というと、僕らの時代ではウィリアム・フォークナーの訳者として知られていた。といっても、こちらも読んでいない。フォークナーは龍口直太郎訳の『短編集 』(新潮文庫)を読んだきり。

この短編集のほとんどは奴隷時代のアメリカ南部を描いたもので、奴隷を増やすために体の丈夫な女奴隷に男奴隷をあてがってどんどん子供を産ませるとか、農園主が女奴隷に手を付けるのは、それが白人と黒人の交わりだからというのではなくて、家畜である奴隷との交わりが軽蔑される行為である、なんてことが書かれているんだけれど、このあたりの描写があまりに衝撃的で、加島祥造訳の『八月の光』『サンクチュアリ』といった長編には手が回らなかったのでした。

と、一冊も読んでいない加島祥造のことを想像するのはおかしなことだけれど、フォークナーの訳者だった彼が老子と出会い、都会を離れて生活し、この詩集を出すことになった心境はどんなものだったんだろう。

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吉田秀和と堀江敏幸の対談

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集英社の読書情報誌『青春と読書』二月号をパラパラ読んでいたら、吉田秀和と堀江敏幸の対談「音楽の恵みと宿命」が載っていました。これは、集英社の雑誌『すばる』に連載されている吉田秀和の巻頭エッセイがこの二月に『永遠の故郷−夜』という単行本で出版されることから記事になったようです。

この二人の対談は去年の夏にもあって、NHK テレビで放送され、また、新潮社の季刊誌『考える人』にも載ったのですが、全体にとても落ち着いた雰囲気だったし、聞き手の堀江敏幸の受け方が誠に的確で、読んでいてとても気持ちの良いものでした。

今回の対談で吉田秀和は「音楽はもっと音楽自身で語らせたい、音楽の領域で言葉と関係したいと思っていた」けれど、「自分のなかにはもっと言葉に近寄りたいという気持ちがあって、今度は音楽と文学の両方にわたるようなことを書いてみたいと思った」と述べています。そして、このエッセイは中原中也からはじまるとのことです。

単行本『永遠の故郷−夜』は吉田秀和の新しい魅力が感じられるエッセイのようです。

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